シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
「愛の微笑み」(後に「愛のメモリー」と改題)を初めて耳にしたのは、テレビから流れてくるコマーシャルソングだった。
三浦友和が列車から窓外を眺めている。寝台列車に揺られて迎えた朝の、どこか、ヨーロッパの田園風景だったか。やがて終着駅のプラットホームに滑り込んでくる列車から降り立った彼は、迎えに来た〝誰か〟を見つけて顔をほころばせながら、混雑する人々をかき分けるように走り寄って来る(このCMバージョンには山口百恵の姿はない)。この〝再会〟のドラマの間、「愛の微笑み」が流れていた。チョコレートのCMだったが、松崎しげるのかすかな嗄れ声の高音域とけた外れな声量を聴きながら、つくづく「いい歌だなぁ」と感心したものだった。映画のワンシーンのようなCM映像からの印象と、美しいこの楽曲のメロディーや壮大なスケール感は洋楽をアレンジしたかのように聴こえたものだった。
「改題」と前述したように、この楽曲の生い立ちをたどってみたら、何やら運命的なものを感じざるを得ないエピソードがあった。一つ間違えばリリースされず埋もれたままこの世に出なかった奇跡の一曲だったのである。
「学生街の喫茶店」(1973年)が大ヒットしていた3人組の「ガロ」は、かつて松崎しげるとともに「ミルク」と呼ぶバンドを組んでいた盟友の堀内護と日高富明が、新たに大野真澄と組んで結成したものだった。皮肉なことにミルクが解散して間もなく独立した松崎しげるは、1970年(昭和45)12月、シングル「8760回のアイ・ラブ・ユー」でソロデビューしたものの鳴かず飛ばずのままで、ヒットチャートの首位にいるガロを横目にして、不遇の時代にいた。ホットでもアイスでも行けるから、と「ミルク」と名付けたのはマネージャーの宇崎竜童だが、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を率いてデビューしたのも同じ頃で、74年「スモーキン・ブギ」、75年には「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットして時代の寵児となった。ソロデビューで躓いた松崎は相変わらず影の立役者として〝コマソン〟を歌唱する日々を送っていた。
それでも、作詞:阿久悠、作曲:小林亜星「君は何を教えてくれた」(71年)、作詞:ちあき哲也、作曲:中村泰士「黄色い麦わら帽子」(72年)、作詞:喜多条忠、作曲:都倉俊一「私の歌」(76年)は関西の菓子メーカーのチョコレートのコマソンで、テレビやラジオから松崎の歌声が届いていたはずだ。松崎は、某紙のインタビューで、「CMソングは朝から晩までオレの歌声が流れているし、こういう歌手がいてもいいかな、と諦めもあった」と述懐している。しかし顔の出ない裏方仕事でも、当代一流のアーチストたちが創り上げた作品だったことを忘れてはいけない。76年には日本テレビ系ドラマ「俺たちの朝」(作詞:谷川俊太郎、作曲:小室等)の主題歌と、挿入歌「どれだけ遠く」(同)も歌唱している。とはいえ、歌声だけの松崎しげるだった。
コマソン歌手といえども、その歌唱力は誰もが認めていた。1976年、スペインの「マジョルカ音楽祭」に挑戦しようとビクターレコードのディレクターが発案。このヨーロピアン・ポップス界の登竜門的な音楽祭の審査員には、ポール・モーリア、フランシス・レイ、ミシエル・ルグランと世界に冠たるアーチストが名を連ねていた。スタッフには、作曲・馬飼野康二、作詞・たかたかし、世界に通用するのは松崎しげるの並外れた歌唱力に期待がかかった。ディレクターは、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」や「私の歌」のようなスケール感を求め、スペインという国柄もあり情熱的なラブ・ソングを創ろうというのが、マジョルカ音楽祭挑戦のコンセプトだった。作詞のたか、『万葉集』から藤原鎌足が詠んだ和歌をヒントにすれば、作曲の馬飼野、ヘンリー・マンシーニの『ひまわり』をイメージしたという。松崎によればバンド時代のような感覚で、わずか3時間で「愛の微笑み」を完成させた。かくて松崎の圧倒的な歌唱力とステージ・パフォーマンスが功を奏して、自身は最優秀歌唱賞を手にし、総合第2位を獲得するのだ。