昭和のこの時代、母は内職をしていた。職人の父親は「宵越しの銭はもたない男」の典型で、貧しかった。夏の午後、六畳間に卓袱台ひとつ、糊を乾かす内職用の封筒を広げられると、足の踏み場がなかった。母の内職の器用な手さばきをじっと見つめながら、無言の午後を過ごした。遠くラジオから島倉さんの高音の悲しげな「東京だヨ おっ母さん」の声が流れていた。やがて「今日はここまで」と母。封筒を束ねて風呂敷に包み、京浜東北線のひと駅以上の隣町まで歩いて納品に行くのだ。母の木綿の安物のスカートの端をつかんでくっついて行くのが嬉しかった。帰りには必ず駄菓子屋に寄ってくれるからだ。納品を済ませ、手をつないで国電(JR)を跨ぐ陸橋を渡るとき、一陣の風が吹いた。髪をかき上げる母がきれいだった。その瞬間、内職などさせないように僕が楽にしてやる、と子ども心に誓った。あの内職がいくらになったのか分かるはずもないが、その日は、駄菓子屋の数軒先の中華屋さんに入った。母はサイダーと冷やし中華を一つずつ注文した。コップをもらってサイダーを半分ずつ分け、喉を潤した。自分だけ食べていていいのか迷ったが、「良いから早く食べなさい」と母が言った。冷やし中華の酢で鼻がツンとなった。具の卵焼きは食べ、キュウリは残しソバが半分を超えたとき母に差し出した……。
この光景が電光石火のごとくよみがえったのは、民放テレビの歌謡番組「島倉千代子ショー」の舞台中継番組だったか。バブル経済まっただ中、昭和も終わろうとしていた頃だった。歌手として女性として波乱万丈の半生を送ってきた島倉千代子さん。折から新曲の「人生いろいろ」(1987年、作詞・中山大三郎、作曲・浜口庫之助)が130万枚の大ヒットを記録していた。「騙され続けた昭和の大スター」「苦労の連続」「薄幸の歌謡スター」などなど辛い形容がついて回っていた。「人生いろいろ」とテンポのいい調子で楽しげに歌うことで、島倉さんは50歳にして見事に復活したのだった。見るともなくチャンネルを合わせると、懐かしいデビュー曲の「この世の花」、「からたち日記」、「愛のさざなみ」などヒット曲を歌った後、「東京だヨ おっ母さん」と続いたのだ。余談だが、NHKの紅白歌合戦に35回も出場していながら、この大ヒット曲はついぞ歌わなかった。NHKが歌わせなかったという方が正しいのか。歌詞の二番に「九段坂」と「桜の下」とあり、靖国神社を連想させるからというのが今や定説なのだそうだ。そんなことも知らずに心に残った名曲がよみがえったのだった。
「僕が必ず母を楽にさせてやる」と誓ったあの日の思い出と、長じて母の手をひく自分の姿をダブらせるのだが、ついに実現できなかった悔恨の念がよぎった。東京生まれのくせに母は東京見物などしたことはなかったのではないか。働き詰めの生涯だった。母と島倉千代子さんが「ひたむきに生きた昭和の女」として自分の中で重なった。「親孝行したいときには親はなし」のことわざがふっと浮かんだ。以来、「東京だヨ おっ母さん」を聴くたびに胸を突かれる。せめて東京見物ぐらいゆっくりとさせてあげたかった……。
文:村澤 次郎(ライター)