20.08.17 update

飼い犬のいる生活は、昭和の家族の幸せな一枚のスケッチだった

捨て犬を拾い親に怒られ、再び捨てに行った悲しい思い出

 一般に東京では、猫は下町、犬は山の手という。住宅が密集した下町では、犬は飼いにくい。庭のある家ではじめて犬が飼える。

 その点で、明治四十二年(1909)生まれの大岡昇平は回想記『少年』で興味深いことを書いている。

 少年時代(大正のなかごろ)、犬を飼うことは贅沢だった。大岡家は、あまり裕福ではなく、渋谷の長屋のようなところに住んでいた。大岡少年は、犬が飼いたくても、親に飼ってとは言えなかった。

 その後、父親が株で成功し、渋谷の一戸建ての家に移った。そこではじめて父親に、犬を飼ってとねだったが、父親は庭を盆栽でいっぱいにしたため、大事な鉢をひっくり返すからと言って犬を飼ってくれなかったと言う。

 大岡昇平は、また『少年』のなかで「当時は畜犬は今日のように普及していなかった」と書いている。

 犬を飼うことは贅沢だったことが分かる。それが昭和に入って、ようやく一般化し『生まれてはみたけれど』や『ノンちゃん雲に乗る』のように郊外住宅地の小市民の家庭で犬が飼われるようになる。

 忠犬ハチ公は、そうした昭和の小市民に飼われたもっとも有名な犬だろう。

 子供の頃、捨て犬を拾ってきて、親に怒られ、泣く泣くまた捨てに行った悲しい思い出は、ある世代の人間には誰にでもあるだろう。

 佐多稲子原作、川頭義郎監督『子供の眼』(56年)の小学校の男の子(名子役、設楽幸嗣)は、原っぱに捨てられた子犬を拾ってくる。しかし、犬の嫌いな母親(高峰三枝子)に「捨てて来なさい」と叱られる。泣く泣く子犬をかかえ、遠くへ捨てに行く。子供にとっていちばんつらい日になる。

 その点、島耕二監督『銀座カンカン娘』(49年)のポチは幸せだ。世田谷あたりの郊外住宅地に下宿している画家の卵の高峰秀子が下宿のおばさんに、この家の甥(灰田勝彦)が飼っているポチを捨ててくるよう命じられる。戦後の食糧難の時代。犬を飼う余裕がないから。

 そこで高峰秀子はポチを捨てにゆくのだが可愛そうで捨て切れず、おばさんに内緒で飼うことにする。優しい女の子だ。

 管理社会の現代、町にはもう野良犬がいなくなった。したがって昔のように雑種が生まれなくなった。

 最近の犬は、ブリーダーが育てる名犬ばかり。少し寂しい。

かわもと さぶろう

評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。

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