レコードでクラシックを聴いていた大正時代の文学者たち
日本でクラシック音楽が親しまれるようになったのはいつごろからだろう。
『銭形平次捕物控』の作者、野村胡堂は他方で「あらえびす」のペンネームでクラシックのレコード評を書いた。クラシック音楽評論家の草分け。
「報知新聞」の記者だった野村胡堂が新聞にレコード評を書くようになったきっかけは、大正十三年(1924)、日本にはじめて輸入されたベートーヴェンの「交響曲第九番」のレコードを聴いて感動し、そのレコード評を書いたことだった。日本の新聞に掲載された最初のレコード評だという。
ちなみに「クラシック」は日本でのいい方で、英語では〝classical music〟。
大正時代に入って文学者たちが好んでクラシックをレコードで聴くようになる。
北原白秋、萩原朔太郎、宮沢賢治らの名前が思い浮かぶ。白秋は大正十一年頃、小田原の山荘に住んだが、ある時、そこに室生犀星と萩原朔太郎を招待した。そして食事のあとビクターの蓄音機でショパンのレコードを聞かせた。まだレコードも蓄音機も珍しかった時。最高のもてなしだったろう。
朔太郎は当時、輸入レコードの発売で知られた銀座の天賞堂の上得意だったという。また宮沢賢治は、花巻でレコード鑑賞会を開いていた。
レコード時代の到来と名曲喫茶の登場
クラシックのレコードが次第に普及してゆくのは昭和に入ってから。
昭和八年公開の小津安二郎監督の『非常線の女』には、岡譲二演じる主人公が銀座のレコード店に入る場面がある。店内には書斎ほどの広さの試聴室があり、岡譲二はそこでひとり、ゆっくりと新着のレコードを聴く。現代よりずっと贅沢だ。
サイレント映画なので何の曲かわからないが字幕から判断すると、クラシック、当時の言葉でいえば洋楽のようだ。
昭和十二年公開の成瀬巳喜男監督の『女人哀愁』では、ヒロインの入江たか子が銀座のレコード店で働いている(着物姿)。高級店で、店内は二階まで吹き抜けになっている。レコードは棚に横になって入っている。新譜のコーナーには”New Arival”と英語で書かれている。ハイカラだ。
こうした映画から昭和のはじめにレコード時代が到来したことがわかるが、まだまだレコードは贅沢品で、女店員の月給が三十円前後の時代に安いものでも一枚一円五十銭はした。また蓄音機は国産の安いもので八百円もした。
これでは一般の人間にはなかなか買えない。
そこで昭和十年頃から、クラシックのレコードを聴かせる名曲喫茶が登場してくる。
吉村公三郎監督の回想記『キネマの時代─監督修業物語』(共同通信社、85年)には当時の名曲喫茶の思い出が書かれている。
「蒲田に『田園』という喫茶店があった。当時流行した名曲喫茶という奴である。これの大きなのが銀座にあり『ダット』『都茶房』といった。共に立派な電気蓄音機を置いており、『ダット』にはレコード・ガールというのがイブニングドレスを着て、レコードを終わったのを取り替えていた」
「電気蓄音機」(電蓄)という言葉が懐かしい。私の子供時代、昭和二十年代もまだこの言葉は残っていた。「ステレオ」とか「プレーヤー」というようになったのは東京オリンピックの頃からだったか。
昭和十年代の喫茶店が出てくる戦前の映画がある。
のちに『君の名は』を作る大庭秀雄監督の昭和十六年の作品『花は偽らず』。本郷あたりに住む学者の佐分利信が、散歩の途中、町の喫茶店に入る。観葉植物が置かれ、「電蓄」からはモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナイト・ムジーク」が聴こえてくる。