名曲喫茶通いは青春時代の懐かしき思い出
名曲喫茶は戦後も盛んになる。
まだレコードも「電蓄」も高くて庶民には手が出なかった。だから音楽ファンは名曲喫茶に通った。
昭和十年生まれの作家、三木卓は最近出版したエッセイ集『雪の下の夢』(ふぉとん叢書、10年)のなかで昭和三十年代、青春時代に名曲喫茶に通った思い出を書いている。
「LPレコードは、大学出の初任給で二、三枚しか買えないという目から火が出るほど高価なもので、それで買えっこない注目の新譜がどこそこの喫茶店にはいった、という噂が聞えてくると、それを聞くために青年ファンどもは、わざわざ出かけていった」
昭和二十八年に公開された林芙美子原作、成瀬巳喜男監督の『妻』には、銀座にあった名曲喫茶「らんぶる」が出てくる。
サラリーマンの上原謙は、妻の高峰三枝子との結婚生活が倦怠期にあり、同じ会社でタイピストとして働いている未亡人の丹阿弥谷律子と次第に心惹かれあう。
ある昼休み、二人は「らんぶる」に行く。ヴァイオリン曲が流れている。「ラロの『ヴァイオリン協奏曲』。私の大好きな曲なんです」。上原謙はそんな丹阿弥谷律子にいよいよ惹かれてゆく。
「らんぶる」は平成に入っても健在だったがいまはない。何度か通ったところだったが。
かわもと さぶろう
評論家(映画・文学・都市)。1944 年生まれ。東京大学法学部卒業。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」を経てフリーの文筆家となりさまざまなジャンルでの新聞、雑誌で連載を持つ。『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)、『映画の昭和雑貨店』(全5 冊)『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』『映画を見ればわかること』『銀幕風景』『現代映画、その歩むところに心せよ』『向田邦子と昭和の東京』『東京暮らし』『岩波写真文庫 川本三郎セレクション 復刻版』(全5 冊)など多数の著書がある。