昭和の一人暮しの若者たちは風呂なしのアパートが当り前で、下町に暮す人々同様、銭湯通いをした。昭和51年のテレビ「俺たちの朝」は江ノ電の極楽寺駅近くで男2人&女1人で共同生活をする若者たちの青春の光と影を描いたドラマだが、エンディングでは毎回3人揃って近所の銭湯に行くシーンがあった。その日一日つらいことがあっても、銭湯から出て来た若者たちの顔はいつも笑顔だった。子供たちは大きな湯舟についはしゃぎ、他所のおじさんから大目玉をくらう。そうして、行儀を覚えもした。式亭三馬の『浮世風呂』の時代から、庶民の憩いの場であり社交場だった銭湯。そんな風景も昭和の終わりとともに懐かしい風物詩になったのかもしれない。
昭和の風景 昭和の町 2011年7月1日号より
銭湯
昭和の庶民の小さな楽しみ
文=川本三郎
湯を御馳走になる、という時代
小津安二郎監督の『東京物語』(53年)にのどかな、いい場面がある。
尾道から東京に出て来た老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が子供たちの家を転々とする。ある時、下町で美容院を開いている長女(杉村春子)の家に泊まりに行く。
長女は忙しくてなかなか両親の相手が出来ない。かわりに夫(中村伸郎)が気を遣い、夏の夕暮れ、二階の物干台で夕涼みをしている養父にこう声を掛ける。
「風呂、行きましょう」。さらに義母には「また帰りにあずきアイスでも食べますか」。近所の銭湯に一緒に行って帰りに氷あずきを御馳走する。下町の人間のささやかなもてなしである。
昭和のはじめ浅草で育った芝木好子の自伝的小説『隅田川』には「そのころ町家は浴室を持たないのが普通であった」と書いている。東京の下町では内湯を持たず町の銭湯に行くのが普通だった。
『東京物語』の三人がのんびりと銭湯に出かけてゆく姿は下町では日常風景になっていたことが分かる。
小津安二郎は戦前の作品『一人息子』(36年)でも銭湯に行く親を描いている。
信州から母親(飯田蝶子)が東京に出た一人息子(日守新一)を訪ねてやって来る。息子は東京の下町、江東区の砂町あたりで妻子とつつましく暮している。内風呂はない。
夜、母親は近所の銭湯に出かけてゆく。帰ってきた母親に息子が「お湯いかがですか」と聞くと母親は満足そうに「いいお湯でごわした」と言う。ここでも銭湯に行くことが、昭和の庶民の小さな楽しみになっている。「湯を御馳走になる」という言葉が残っていた時代のこと。
ちなみに東京の下町、日本橋蛎殻町生まれの谷崎潤一郎は、昔の下町では「風呂屋」ではなく「湯屋(ゆうや)」、「風呂にはいる」ではなく「湯にへえる」と言ったと書いている(随筆「當世鹿もどき』)。なるほど戦後の『東京物語』では「銭湯」なのに対し、戦前の『一人息子』では「湯」になっている。