戦後に子供時代を過ごした人々にとって、相撲と並び野球は花形スポーツだった。人気力士や野球のスタープレーヤーたちは、子供たちの憧れであり、メンコにも似顔絵が描かれ、少年雑誌の表紙にもよく登場した。昭和20年代や30年代には川上哲治や稲尾和久、長嶋茂雄を主人公にした映画も製作されている。子供たちは自慢のメンコや雑誌を手に近所の原っぱに集合したものだ。そして、原っぱでの最高の遊びが野球だった。原っぱで野球をして、打ったボールが近所の家の窓ガラスを割りカミナリを落とされるという場面も映画や漫画によく描かれた。昭和の遊びから生まれた、今は懐かしいシーンだ。野球選手になるという夢を持ちながら、「ごはんですよ」の声がかかるまで、子供たちは原っぱで夢中になって野球を楽しんだものだった。
昭和の風景 昭和の町 2012年1月1日号より
原っぱの野球
昭和の子らの絶好の遊び場所
文=川本三郎
戦前の映画にも登場する原っぱで野球を楽しむ子供たち
昭和の頃、どこの町にも原っぱがあった。そこは子供たちの絶好の遊び場所になっていた。とりわけ原っぱで行われたのが野球だった。現代のような立派なグラウンドなどまだなかった時代、原っぱは子供たちにとってもっとも身近かな町の野球場だった。
昭和のはじめの映画に、もう原っぱで野球を楽しむ子供たちが登場している。
たとえば昭和八年(1933)の成瀬巳喜男監督作品『夜ごとの夢』。当時のスター栗島すみ子が演じるヒロインはカフェーの女給をしながら子供を育てている。
彼女は東京の下町、佃島あたりのアパートに住んでいるが、近くに原っぱがある。そこでは町の子供たちが野球をしている。この頃から原っぱはもう子供たちの格好の遊び場所になっている。
まだ小さくて仲間に入れてもらえない男の子はコンクリート管に乗って見物。原っぱといえば丸い、大きなコンクリート管がよく置いてあったものだ。資材置場として使われていたからだろう。電線巻の木芯なども置いてあった。
昭和十一年(1936)の小津安二郎監督作品『一人息子』は、信州から東京に出て来て夜学の先生をしている息子(日守真一)とその母親(飯田蝶子)の物語。
息子は隅田川を渡った、現在の江東区砂町あたりの一軒家に妻と子供と暮している。当時はまだ新開地で、家の近くには大きな原っぱがある。そこで近所の子供たちが野球をしている。ミットを持っている子供とミットを持っていない子供がいるのは家の経済状態が違うからだろう。
原っぱのはずれに馬が一頭つながれていて草をはんでいるのが面白い。馬車屋の馬らしい。子供の一人が得意になってその馬の腹の下を何度もくぐり抜けているうちに馬に蹴られてしまうのだが。
ちなみに江東区は荷馬車屋が多かったところで、昭和十年頃、砂町には八百頭の馬がいたという(石田波郎『江東歳時記』(東京美術・昭和四十一年〉)。
昭和十五年(1940)に公開された子役時代の高峰秀子の野球映画『秀子の応援団長』(千葉泰樹監督)にも原っぱの野球が出てくる。
高峰秀子演じる少女は野球を見るのもするのも好き。東京の山の手に住んでいる。西洋館の並ぶお屋敷町にもちゃんと原っぱがある。
そこではやはり町の子供たちが野球をしている。小さな女の子も加わっている。女学生の高峰秀子はいちばんのお姉さんなのでキャッチャーを務める。
張切って遊んでいる時、たまたま父親が通りかかり、「なんてお転婆な」「女の子なんだから野球なんかするんじゃない」とお目玉を食ってしまうのが可笑しい。