文集作りは先生と生徒の共同作業だった
昭和の風景 昭和の町 2013年10月1日号より
ろう引きの原紙をヤスリ盤にのせ、鉄筆で文字を刻む。原紙の下に紙を敷き、シルクスクリーンのような網をかぶせてインクを塗ったローラーを転がすと印刷できる、ガリ版印刷。シニア世代なら誰しもが経験した懐かしい道具だろう。昭和50年代には「プリントゴッコ」なる家庭用小型印刷器具が売り出された。ハガキサイズ専用の謄写印刷グッズで、年賀状印刷などに重宝し、特に子供たちには遊び感覚で人気があった。コピー機やパソコンの流通で、ガリ版も姿を消していったが、演劇や映画、テレビの台本、楽譜、文芸同人誌作りを支え昭和には「ガリ版文化」と呼ぶべき一時代が確かに存在していた。ガリ版を思い出すとき、そこには昭和の青春が香り立つ。
文=川本 三郎
ろう引き原紙に鉄筆で文字を刻んだ懐かしいガリ版刷り
若い人はもう知らないかもしれないが、シニア世代には、ガリ版、あるいは謄写版は、懐かしい印刷道具として記憶されている。
学校や職場などで日常的に使われていた簡易印刷機。
たとえば、昭和二十四年(1949)生まれの作家、北村薫は、父親の若き日を描いた『いとま申して「童話」の人びと』(文春文庫、13年)のなかで、ガリ版のことを懐かしく書いている。
「我々が小学生の頃、先生が作ってくれるプリントは、ヤスリの上に置いた蝋原紙(ろうげんし)に鉄筆で書いて版を作り、印刷したもの、つまり謄写版─―世間一般にはガリ版といっていたものである。知っている者には、今更、説明するまでもない。しかし、若い人は見たこともなかろう。鉄筆を使う時、ガリガリという音がするからガリ版というのだろう」
「いや小学生の頃、どころではない。我々が、大学生の時も、同人誌は、全て、このガリ版で作られていた」
間違いなく、ついこのあいだまでガリ版文化というものがあった。北村薫さんより少し上になる私などの世代も昭和三十年代にガリ版にはずいぶん親しんだ。
小学校で配られるプリント、作文集、宿題はたいていガリ版で刷られていた。私の大学生時代は学生運動が盛んだったが、校内で配られるビラはガリ版のものだった。
試験を前にして、講義内容がガリ版で刷られて売られてもいた。授業をサボってばかりいる学生には有難かった。
活字よりも安く、手早く出来るので薄手の同人誌ならガリ版で充分だった。
いま手元に、古本屋で手に入れた昔の映画の撮影用の台本がいくつかあるが、すべてガリ版である。映画界にガリ版は不可欠だった。
ガリ版文化は確かに日本文化を底辺で支えていた。ろう引きの原紙、鉄筆、印刷用のインク、ローラー……どれも懐かしい。鉄筆でろうを引いた原紙に原稿の字を一字ずつ刻んでゆく、「ガリを切る」という言葉も懐かしい。
「ガリ切り」は貧しい学生の手頃な内職だった
志村章子『ガリ版ものがたり』(大修館書店、12年)によれば、ガリ版は日本で生まれたものだという。
明治二十七年(1894)に堀井新治郎、仁紀親子によって考案された。役所や学校で使われるようになって広く普及した。謄写版という言葉は、役所の業務と関わりの深い戸籍謄本からとられた。