理想と自由を胸に明日に向う場所
昭和の風景 昭和の町 2014年4月1日号より
昭和のある時期、コーラスが流行った時代があり、映画の中でも、職場の昼休みに屋上でコーラスの練習をする女子社員の姿や、同僚たちとの休日のハイキングやピクニックでコーラスを楽しむ姿が描かれている。ロシアやスコットランドやスイスの民謡、日本の抒情歌などが好んで歌われた。そして街の歌声喫茶では、一緒に歌うことで人とのつながりを求める人々が集った。地方から集団就職で上京した若者、労働運動や学生運動のデモ帰りの若者に交じり、なぜか山登りを愛する若者たちも多かった。そのせいなのか、歌声喫茶で愛唱される歌には山の歌も多かった。70年代以降、そのブームは下火となったが、時を経て、再び歌声喫茶に集る人が増えたときく。歌を通して、人と結びつき、明日を生きる糧を得ているのかもしれない。
文=川本三郎
アコーディオン伴奏で歌われたロシア民謡や労働の歌
まだカラオケもライブハウスもなかった昭和三十年代、若い世代に人気があったのが歌声喫茶。
アコーディオンの伴奏に合わせてロシア民謡や労働歌、山の歌や童謡などを歌う。
労働者や若者たちが、共に歌うことでいっときの連帯感を作りだす。若い男女の出会いの場所として貴重でもあった。当時さかんだったデモの熱気もあった。
「歌声喫茶」と呼ばれたが、酒も出したので「歌声酒場」とも言った。
昭和三十年代の青春を描いた遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』(文藝春秋、昭和三十九年)では、主人公の「ぼく」が「歌声酒場」のことをこう語っている。
「今はもうさびれかけてきたが、その頃、ぼくら学生のよく行く歌ごえ酒場というやつがあった」「あやしげなルパシカをきた男が酒やコップを運ぶひまに膝に手風琴(アコーディオン)をのせてロシア民謡をかなでる」
「ルパシカ」は当時流行したロシアの民族衣裳。長い上着でベルトで締める。芸術家、とりわけ画家が好んで着た。歌声喫茶のボーイもよくこれを着ていた。
『わたしが・棄てた・女』は昭和四十四年(1969)に浦山桐郎監督によって映画化(題名は『私が棄てた女』)されたが、映画のなかに歌声喫茶が出てくる。
主人公の早稲田大学の学生(河原崎長一郎)が、雑誌の文通欄(これもいまとなっては懐かしい)で知り合った女の子(小林トシエ)と渋谷のハチ公前で待ち合わせ、近くの歌声喫茶に行く。
店内は学生がいっぱい。当時のことだからみんな学生服を着ている。若い女性も多い。そしてボーイは、ルパシカを着ている。
アコーディオンの演奏で学生たちが歌っているのはロシア民謡の「一週間」。
〽日曜日に市場へ出かけ……。
あの頃、歌声喫茶では本当によくロシア民謡が歌われた。ソ連が「労働者の国」として夢のように語られていた時代だったからだろう。
三島由紀夫が「健康な享楽場」と記した歌声酒場の熱気
昭和二十三年(1948)に関鑑(あき)子によって労働者や学生、市民が歌によって連帯しようとする「うたごえ運動」が始められた。それまでの歌謡曲とは違うロシア民謡や労働歌が好んで歌われるようになった。
「うたごえ運動」で人気が出た歌を歌う場所として歌声喫茶が生まれていった。
東京では新宿の「どん底」と「灯」が知られた。
昭和三十一年(1956)の日活の青春映画、岩橋邦枝原作、古川卓巳監督の『逆光線』では、東京の女子大生、北原三枝が友人たちと歌声喫茶に行き、「若者よ」を歌う。
〽若者よ 身体を鍛えておけ
と歌っているうちに感激して目に涙を浮かべる。歌いながら手を握り合っている男女もいる。当時の歌声喫茶の熱気が感じられる。
この場面は、新宿三丁目の「どん底」で撮影されている。「どん底」は昭和二十六年(一九五一)に開店し、人気店になった。昭和二十九年のメーデーの時には、超満員になり、店内の客と店に入りきれず外にいた客が一緒になり大合唱が起き、大いに盛り上がったという。
いま手元に「どん底」の歌集があるが、ロシア民謡をはじめ、労働歌、童謡、シャンソンなど約三百五十曲収録されている(1961年)。
〽しあわせはおいらの願い……と歌われた「しあわせの歌」や、小林旭が歌った「北帰行」などは、歌声喫茶でよく歌われた。
「どん底」には、昭和三十二年(1957)に三島由紀夫が訪れ、「朝日新聞」に訪問記を書いている。
「酒場『どん底』では、どん底歌集というのを売っていて、ある歌を一人が歌いだすと、期せずして若人の大合唱となる。喚声と音楽がいっしょになって、なまなましいエネルギーとなって、一種のハーモニイを作り上げる。何んともいえぬハリ切った健康な享楽場である」
労働運動など嫌った作家が歌声喫茶を訪れ、そこを「健康な享楽場」と誉めているのは意外な気がするが、冷静な作家も若い熱気に巻き込まれたのだろう。
「ワビだのサビだのいっていた日本人が、集団的な享楽の仕方を学び、とにかくも一夕の歓楽の渦巻を作りうるようになった」のはいいことだとも書いている。歌声喫茶は、戯曲も書いた三島由紀夫には演劇的空間に見えたのだろう。