店頭で各種商品の宣伝、販売を担当する販売員「マネキン」。マネキンはモデルを意味するフランス語「マヌカン」の英語読みに由来するが、マヌカンでは客を招かない(招かん)、ということでさる化粧品会社により招き猫にかけて造語されたという。モデルも兼ねるマネキン・ガールを初めて登場させたのが高島屋呉服店。マネキン・ガールは昭和初期の「ガール」全盛時代において時代の最先端をいく、一際華やかな職業だった。マネキン・ガールはその後ファッション・モデルへと発展し昭和の時代の百貨店で、お得意様を対象に開催されたサロン風のファッション・ショーなども活躍の場となった。一時期日本で、「ハウスマヌカン」なるブティック店員をさす言葉が流行ったが、これはヨーロッパなどの会員制婦人服ブティックで専属モデルとして活躍する「ハウスマヌカン」とは別ものだった。
マネキン・ガールの登場
~モダン都市へと変貌する東京に誕生した華やかな女性たち~
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2016年4月1日号より
ファッション・モデルの草分け伊東絹子は 八頭身美人
戦後の明るい話題のひとつに、昭和二十八年(一九五三)、ファッション・モデルの伊東絹子がミス・ユニバースで三位になったことがある。
日本の女性が世界の美女に伍して堂々三位になった。戦争に敗れ、アメリカを始め西欧社会に、なにかにつけ劣等感を抱いていた日本人にとって、伊東絹子は、スポーツの世界における、水泳で世界記録を出した古橋広之進に匹敵する輝ける存在だった。
それまでの日本の女性に比べ、伊東絹子は何よりもスタイルがよかった。顔が小さく、脚が長い。そこから「八頭身」という言葉が生まれたほど。
伊東絹子は、戦後、日本の服飾界が専属モデルを公募したときに応募してきた、ファッション・モデルの草分け。
ファッション・ショーは、昭和二十六年に日本デザイナー・クラブが銀座で開いたものが最初とされる。
このときは、ダンサーやキャバレーなどで働く女性がモデルを務めたが、不評だったために、公募をして、服飾界専属のモデルが生まれていった。
昭和のはじめの東京は ガールの全盛時代だった
しかし、この職業が登場したのは、実はもっと早い。昭和のはじめ。当時は、ファッション・モデルの言葉はなく、フランス語のマヌカンから派生したマネキンと呼ばれていた。
いつから登場したのか。
手元の『昭和史年表』(小学館、86年)には、昭和三年(一九二八)に「マネキンガール初登場」とある。博覧会で、現在のモデルのような仕事をした。
昭和のはじめ、実際にマネキンとして仕事をした丸山三四子の回想記『マネキン・ガール 詩人の妻の昭和史』(時事通信社、84年)には、この昭和三年のマネキン初登場のことが次のように書かれている。
三月、昭和天皇即位の御大典記念として、上野公園で国産振興東京博覧会が開かれた。このとき百貨店協会が特設館を設け、そこに高島屋が和服を出品したが、マネキン人形に和服を着せてソファーに腰かけさせただけではなく、本物の女性を一人そこに加えた。
これが、マネキン、のちのファッション・モデルのはじまりだという。本物の女性が、服の宣伝をする。評判を呼んで、翌年の昭和四年三月、日本の美容師の草分け、山野千枝子(山野愛子の母)が、アメリカで得た知識をもとに、日本マネキン倶楽部という組織を立ち上げた。マネキンが、はじめて女性の職業となった。
関東大震災後の東京は、それまでの江戸の面影を残す町から、一気に、ビルが建ち、自動車や地下鉄が走るモダン都市に変わった。女性の社会進出も盛んになり、さまざまな「ガール」が登場するようになった。丸山三四子は書いている。
「東京は、ガールの全盛時代でした。ガソリン・ガール、円タク・ガール、ショップ・ガール、デパート・ガール、エンゲルス・ガール、ワンサ・ガール、ステッキ・ガール……」
ちなみに「ガソリン・ガール」はガソリン・スタンドで働く女性、「エンゲルス・ガール」は社会主義運動に参加する女性、「ワンサ・ガール」はレヴューのその他大勢のダンサー、「ステッキ・ガール」は銀ブラ(銀座の散歩)を楽しむ男性のお伴をする女性。
こうしたさまざまな「ガール」のひとつとして「マネキン・ガール」が登場した。