映画にお芝居にお買い物といったお出かけ。デパートの大食堂やレストラン、パーラーでのお食事。女性たちや、子供たちもこの習慣が普及していったのは昭和を迎えてからのことであった。このうれしい習慣は長いこと昭和の楽しい行事として存在した。磯野カツオくんも、ワカメちゃんも、ちびまる子ちゃんも、みんな、お出かけと外食に胸躍らせた。そのデパートの食堂が様変わりを見せ、消え去ろうとしている。だから今、私たちは古い映画の中にあの幸せな思い出のシーンを訪ねるのだ。
お出かけと外食
関東大震災後に普及した小市民の楽しみ
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2009年11月25日号より
奥さん孝行の夫婦でのお出かけ
昭和三十年(1955)に作られた東宝映画、丸山誠治監督の『男ありて』はプロ野球の監督とその家族を描いたホームドラマの秀作だが、このなかに監督の志村喬が、珍しく奥さんの夏川静江を誘って銀座に出る場面がある。夫婦のお出かけである。夫のほうからいえば奥さん孝行。
奥さんの希望だろう、まず日比谷の宝塚劇場で宝塚の舞台を見て、そのあと、お好み焼屋に入り、夫婦差し向かいで食事をする。
現在では夫婦のお出かけはもう普通のことだが、昭和三十年代にはまだ珍しい。だから夫のほうは少し照れ臭い。それでも奥さんが「わたしもいただこうかしら」とビールを飲んで「ああ、おいしい」というと思わず笑みがこぼれる。
外食は、デパートの食堂で
外食産業という言葉があるように、夫婦で、あるいは家族で外食を楽しむことは現在ではもう当たり前のことになっているが、こういう習慣が小市民のあいだではじまったのは、大正のおわりから昭和のはじめにかけて。西暦でいえば1920年代になってから。
それまでは家族で連れ立って、ましてや夫婦そろって外に食事に出ることは冠婚葬祭など特別な時を除いてまずなかった。男は宴会に出かけても、妻や子供は家にいるのが普通だった。
しかし、大正時代に入って、いわゆる大正デモクラシーの思想が広がってゆくと、そういう男性中心の家父長的な考えが改められ、家族で、夫婦で外に出かけるようになった。
第一次世界大戦後、日本の経済が成長し、大都会を中心にサラリーマンという中産階級が出現していったのも、外食の普及を促した。
東京のデパートでもっとも早く食堂を設けたのは日本橋にあった白木屋で明治三十六年(1903)。明治四十年(1907)にやはり日本橋の三越が食堂を開いている。
デパートに食堂が出来たことで小市民が家族連れで休日などに銀座や日本橋にお出かけするのが容易になった。
震災後の復興景気を支えた飲食店
外食産業が盛んになったもうひとつのきっかけは大正十二年(1923)の関東大震災。被害は大きかったが、その後の東京復興は早かった。復興景気を支えたのが、たやすく店を開ける飲食店だった。
松崎天民の『銀座』(昭和二年 現在中公文庫)によれば「関東大震災後『東京の復興は飲食物より』と思わせたほど、市内の何処へ行っても先ず第一に店を開いたのは、カフェーや小料理店や、おでん屋や寿司屋の類であった」
震災は古い権威や格式を壊した。それまでの格式の高い料亭にかわって小市民が気軽に入れる飲食店が大量に閉店していった。
トンカツ、ラーメン、カレーライスなどが登場するのは震災後。
たとえばトンカツ屋の元祖は東京の御徒町にあった洋食屋のポンチ軒。大正末期にポークカツレツをもとにトンカツを考案した。
昭和十一年(1936)の小津安二郎監督作品『一人息子』では、笠智衆演じる元学校の先生が、現在の江東区の砂町あたりでトンカツ屋を開いている。昭和十二年(1937)の五所平之助監督作品『花籠の歌』は銀座のトンカツ屋が舞台で、田中絹代が店の看板娘。庶民の御馳走、トンカツが昭和に入って急速に普及しているのが分かる。
ラーメンのはじまりは諸説あるが、普及するのはやはり関東大震災後。昭和五年(1930)にベストセラーになった林芙美子の自伝的小説『放浪記』では、貧乏な彼女がさかんにラーメンを食べたいといっている。小津安二郎監督の『一人息子』には屋台のラーメン屋が出て来ている。庶民のあいだに普及している。
ライスカレーは夏目漱石の『三四郎』にも出てくるから明治時代からあったことが分かるが、普及するのはやはり震災後、昭和に入ってからだろう。
昭和六年(1931)に作られた小津安二郎監督のサイレント作品『東京の合唱』では斎藤達雄演じる高校の先生が、退職後、芝白金三光町あたりで庶民的な洋食屋を開くが、店の自慢はライスカレー。
ちなみに向田邦子の『父の詫び状』によれば「お金を払って、おもてで食べるのがカレーライス」「自分の家で食べるのが、ライスカレー」。絶妙な定義と言える。