SPECIAL FEACURE 2012年1月1日号より
昭和の時代には、おじいちゃん、おばあちゃんから孫の世代まで 家族全員誰もが口ずさめる、日本人の歌があった。都はるみ『北の宿から』、八代亜紀『舟唄』、沢田研二『勝手にしやがれ』、 山本リンダ『どうにもとまらない』、ピンク・レディー『UFO』……。そして、これらは全て阿久悠さんの作詞である。『もしもピアノが弾けたなら』、『青春時代』、『みずいろの手紙』、 『学園天国』、『宇宙戦艦ヤマト』も『ピンポンパン体操』も、阿久さんの作。 日本人の心に寄り添うように、いつも傍らに阿久さんの歌があった。阿久さんの長年の友人であった演出家・エッセイストの鴨下信一さんは、それは、阿久さんの詩の形式のほとんどが 日本の伝統的詩歌に由来するからだと言う。 ここに阿久さんの詩作スタイルの本質が明らかにされる。
取材協力&株式会社オフィス・トゥー・ワン/明治大学総務課大学史資料センター
日本人が愛した歌謡曲
文:鴨下信一
芭蕉を正確に学んだ阿久悠
阿久悠記念館が母校明治大学に建った。小型の記念館はわたしたち それぞれの胸の中にあって、入ればそこには愛した阿久悠の歌がある。 どの歌も日本人の心の琴線(きんせん)を打つ歌だ。
詩の内容もそうだが、実は詩の 〔形式〕が日本人の魂を揺(ゆ)さぶるのだ。その形式はほとんど日本の伝統的詩歌に由来するので、だからこそ、あれだけ歌の世界を革新する作業をしたのに、彼の作詞が日本の大衆に根強く支持されたのだろう。
例えば――あの『白い蝶のサンバ』を阿久悠は〔七五調〕で書いた──こういったら笑うだろうか。あの早口ことばのような歌詞が古風な七五調だなんて……。
『白い蝶のサンバ』(昭和 44 年、曲・ 井上かつお、唄・森山加代子)〈あなたに抱かれてわたしは/蝶になる あなたの胸あやしい/くもの糸〉
ちなみに、たいていの「うたの本」 の歌詞は間違っている。問題は〔区切り方〕で、〈あなたに抱かれて/ わたしは蝶になる〉は間違いだ。譜面を見ればすぐわかる。〈〜わたしは〉までで1小節(12 音)、〈蝶になる〉は5音しかないけれども、これも同じ1小節。次の行も10音と5音がそれぞれ1小節に収まる。
和歌 は 57577、俳句 は 575、日本人なら誰でもが知っている。しかし芭蕉の有名句にも〈芭蕉野分(のわき)して 盥(たらひ) に雨を聴(きく) 夜(よ)哉 かな 〉〈枯枝に 烏(からす) のとまりたるや秋の暮〉のように875とか5 10 5といった〔字余〕と呼ばれるものがある。『白い蝶のサンバ』はこれなのだ。
七五調の5音7音も発音する時間は同じというのが日本語の約束で、だから7音の部分は5音の部分 にくらべて音が〈詰(つま)って〉いる。つまり聴くほうの耳には〈速く〉聞こえる。これが日本語の基本リズムになる。阿久悠はこれを利用したのだ。 ただ、7音のところを 11 ・ 10 と増やした。加速した。これが新しいリズム、新しい魔法だった。
加速したけれども〈蝶になる〉〈くもの糸〉と5音のところはそのまま残した。これで安定感がぐっと増した。作詞家の技術といえよう。芭蕉の字余り句も、終りの5音は崩してない。阿久は芭蕉を〔正確に〕学んだのだ。
和歌の技法[掛け詞]を中心に展開した『北の宿から』
和歌から学んだものは『北の宿から』にある。
『北の宿から』(昭和50年、曲・小林亜星、唄・都はるみ) 〈あなた変りはないですか 日毎寒さがつのります 着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて編んでます 女ごころの未練でしょう あなた恋しい 北の宿〉
和歌のサンプルをひとつ。
〈来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩(もしお)の身もこがれつつ〉
昭和40年ごろまでは、お正月というとどの家庭でも〔百人一首のかるた取り〕をやったものだ。これは小倉百人一首の中の一首、撰者といわれる藤原定家の作だ。この中に和歌の三大技法が全部入っている。〔掛け詞(ことば) 〕〔歌枕(うたまくら)〕〔本歌(ほんか)どり〕そして 〔縁語(えんご)〕。
〈まつほの浦〉は淡路島(阿久悠の故郷だ)の名所で、しばしば和歌に詠まれた。こうした地名を歌枕というのだが、これと本歌どりはまた後で説明する。この〈まつ〉が〈待つ〉と掛け詞になっているのはすぐわかるだろう。〔同音異義語〕違う言葉 だけれど音が同じという日本語はとても数が多いから、この技法は極端に発達した。
『北の宿から』の掛け詞はすぐわかる。〈着てはもらえぬ〉だ。これは〈来てはもらえぬ〉だろう。二重の意味があるのだ。この大ヒット曲はこの掛け詞を中心に展開している。縁語とは意味や感覚を同じくする関係語のことで、北、寒さ、セーター等がちりばめられている。
歌詞は三番まであるが、〔繰り返し(リフレイン)〕 のところを見て頂きたい。従来の歌詞曲なら〈女ごころの未練でしょうか 〉と言うところだ。これが〈未練でしょう〉と〔言い切り〕の型になっていて、これが旧い女でない、新しい女性のきっぱりした生き方の表現になっている。さらに、もう未練を断ち切ったのだの意味を含んでいる ――発表当時、そう評判になったのだが、この新しさと掛け詞の古典性 とが同居しているところが、いかにも阿久悠なのだ。
三番の歌詞の出だしは衝撃的で
〈あなた死んでもいいですか〉と始まる。続けて〈胸がしんしん泣いてます 窓にうつして寝化粧を しても心は晴れません〉。この〈し〉の 乱舞はどうだろう。明らかに意図的な言葉づかいで、これも実は伝統的な、旧くからある日本の歌の技法だ。落語に「しの字嫌い」という演目があるのでわかるように、日本人は非常に音に敏感な民族なのだ。
しかし、この歌の女主人公は結局立直るのだろうと思う。それは題名 『北の宿から』を見るとわかる。この歌は本当はハッピー・エンドなの だ。ここにもう一つの〔掛け詞〕が 秘されている。〈北〉は〈来た〉ではないのか。このタイトルは『来たの宿』ではないのか。
この悲しい(悲しく聞こえる)歌は、繰り返し聴いているうちに再生の歌のように聞える。オーバーに言っているわけではない。ぼくは知っているが、例にひいた〈来ぬ人をまつほの浦の〉の歌は、これを 三べん唱える(火鉢の灰をならしながら)と〔待人来(きた)る〕という 呪(まじな)いがあった。歌の魔術性を人々が信じていた時には人々は本当にそうしたのだ。