成瀬映画の中で、筆者が特に好きなユーモラスな場面や台詞を具体的にいくつか挙げてみる。なお、脚本の中の場面や台詞を「これはいらないね」と削ることが日課のようだった成瀬監督が、そのまま残したものか、撮影時に追加したものかは不明。
『秋立ちぬ』(60)。脚本(オリジナル)=笠原良三。
長野県上田出身(台詞より)で東京・新富町の八百屋の親戚の家で暮らす小学生の大沢健三郎は、仲良しの旅館の娘で小学生の一木双葉と東京湾へ出かけた際に、埋立地で足を怪我してパトカーで八百屋に運ばれる。叔父の藤原釜足は、夕食のちゃぶ台の前で大沢に対して「今日は徹底的に言い聞かせなくっちゃ」と言い、目の前の空のコップを手に取って、妻の賀原夏子に「やぁ、ビールをもう1本持ってきな」と言う。台所から「子供叱るのに、何でビールがいるのよ」と言う賀原。「いいから持ってこいったら」と藤原。まるで十代目金原亭馬生(筆者が一番好きな落語家、1982年死去)の落語に登場する長屋の夫婦のような会話の調子である。
余談だが、秀男役の大沢健三郎は、5年前、清水宏監督『次郎物語』(55、新東宝)の次郎役に大沢幸浩の名前で出演している。舞台となるロケ地は長野県上田市別所温泉界隈だ。大沢健三郎の出身地を上田に設定(オリジナル脚本)したのは、成瀬監督、小津監督の松竹蒲田時代の同僚であり、特に小津監督とは晩年まで親しく交流していた清水宏監督へのオマージュ、洒落っ気のように感じる。
『流れる』(56)。原作=幸田文、脚色=田中澄江、井手俊郎。
柳橋の芸者置屋(つたの家)に女中として入った田中絹代。夜、見回りの警察官が玄関にやってきて「あんた、新しく入った人?」と尋ねる。田中はニコニコしながら「山中梨花(やまなかりか)と申します。45歳でございます」。年齢など聞いていないのに。これも映画館で観客が笑うのを体験している。また映画の冒頭、田中を面接して、つたの家の住み込み女中として採用した後に、女将の山田五十鈴の言う台詞「ねぇ、梨花(りか)さんてぇの、呼びにくいからお春(はる)さんにするわ、ね」。「はい、なんとでもお呼びくださいまして」と答える田中のやり取りも、花柳界独特? の感覚で笑わせてくれる。
筆者が最も好きな成瀬映画『驟雨』(56)。原作=岸田國(国)士、脚色=水木洋子。
映画の冒頭、新婚旅行から戻ってきた香川京子が、世田谷の叔母夫婦(原節子、佐野周二)の家を訪ねる。隣の家に引っ越してきてまだ荷物を運びこんでいる小林桂樹に対して香川が「あの、こちら留守でしょうか?」。小林は「ああ、奥さんは近所でしょう。さっき緑色の買い物かごを下げて出かけられました」と。すかさず小林の妻の根岸明美から「よく見てるわねぇ、あんた」と突っ込まれる。困った表情をしている小林とそれを遠目に見ている香川。「緑色の買い物かご」という余計な一言(=原節子のことを気にしている)によって皮肉を言われてしまう。これも落語の中によく登場する典型的なドジな展開の一つだ。
登場人物の最もユーモラスな行動として挙げたいのが『女の座』(62)の夏木陽介。気象庁に勤める好青年の役。脚本(オリジナル)=井手俊郎、松山善三。
大家族・石川家の四女の司葉子は、人手不足で困っている兄・次男の小林桂樹の経営する中華料理店を手伝う。店で留守番をしているとそこに常連客の夏木が入ってくる。「あの何になさいますか」と訊く司に対して、「いつものラーメンだけど、僕作りますよ。いいですよ、わかってるんだ」と答え、厨房に入って手際よく「スペシャルラーメン」を作ってしまう。あっけにとられて見つめる司に「お茶をいれてください」と夏木。司がお茶缶を持つと、「お茶の缶はそれ、小さい方。大きい方は営業用でまずいんだ」と話す夏木。
前編に紹介した成瀬会で、司葉子さん、故夏木陽介さん(2018年死去)のお二人が並んで座っていた時に、この厨房シーンの話を筆者が振ると、お二人とも「あのシーンはよく覚えています」と答えたと記憶している。
挙げていけばきりがない。紹介した台詞は、何も可笑しいことを言っていない。単に普通のことを言っているだけだ。俳優の抑えた演技、表情、台詞の間など、一つでもわざとらしいものになると、観客はさっと引いてしまい笑えなくなってしまう。そこの加減が成瀬監督は絶妙なのだ。小津監督、そして川島(雄三)監督の演出も同様と考える。
筆者は異色作と呼んでいるのだが、一般的には代表作と言われる原作=林芙美子、脚色=水木洋子の『浮雲』(55)。 究極の恋愛映画と言える『浮雲』には、笑えるシーンや台詞が一つもない(と感じる)。同じく恋愛映画の名作『乱れる』(64、脚本(オリジナル)=松山善三)と、『乱れ雲』(67、脚本(オリジナル)=山田信夫)にはいくつか笑ってしまう台詞やシチュエーションがあるのだが。その点でも『浮雲』は成瀬映画の中の異色作なのだ。
