遺作の『乱れ雲』(67)。通産省に勤める夫(土屋嘉男)を交通事故で亡くした司葉子。姉(草笛光子)と通産省の窓口で担当職員と土屋の退職金について会話するシーンがある。細かい規定の説明をする職員とそれを聞く草笛。職員は「合計83万7731円です」と述べて、草笛は受取りに印鑑を押す。
夫の交通事故の加害者(加山雄三)と、夫を亡くした被害者(司葉子)とがお互いに惹かれ合っていく禁断の恋を描いた恋愛映画の名作だが、恋愛映画に内容とは直接関係のない退職金の金額を台詞として登場させるのも相当変わっている。

©1967 東宝
元々脚本家が取材して書いた台詞にあった可能性も高いが、説明的な台詞を削ってしまうことで有名な成瀬監督が作品の中で使用しているのは、必要だと判断したからだろう。成瀬監督は作品の中にお金の話、その具体的な金額を出すことによって、登場人物の現実の生活や境遇をリアルに描けるとの意図を持っていたと考えざるを得ない。成瀬映画のドラマが、日常生活をリアルに深く描いている点について、この特徴は重要な役割を果たしていると言えるのだ。
成瀬映画の特徴と魅力を4つの視点から述べてきたが、魅力は尽きない。
東京をはじめ地方の屋外ロケーション風景(構図、俳優の動かし方、木洩れ日など光と影のコントラストの美しさなど)、実際のロケーションと見間違えるほど精巧なオープンセット(美術監督=中古智、特に『めし』『浮雲』『流れる』は必見)、日本を代表する脚本家たち(水木洋子、田中澄江、井手俊郎、八住利雄、菊島隆三、橋本忍、新藤兼人、松山善三、笠原良三など。松竹蒲田及びP.C.L時代には成瀬監督自身の脚本、脚色も数多い)によるダメ男とたくましい女を描いたドラマ、人物の動作、台詞などを異なる人物に同じようにつなげるリズミカルな場面転換など、本稿とあわせて成瀬映画を観る楽しみにしてほしい。前編冒頭の3人の名監督をはじめ、多くの映画監督たちからリスペクトされてきた成瀬監督。黒澤組の助監督としても有名な故出目昌伸監督(2016年死去)から筆者が直接聞いた言葉を最後に紹介する。「私は成瀬さんには1本も付いていないんだよね。1本でいいから成瀬さんの助監督に付きたかった」
現存する69本の成瀬作品の中で、筆者が選ぶベストテン(作品名のみ)は、以下の通り。
①『驟雨』②『流れる』③『秋立ちぬ』④『乱れる』⑤『まごころ』⑥『女の中にいる他人』⑦『女の座』⑧『夫婦』⑨『くちづけ(第三話 女同士)』⑩『鰯雲』

平能哲也(ひらの てつや)
1958(昭和33)年、東京生まれ。1982年学習院大学文学部フランス文学科卒。PR会社に16年間勤務の後、危機管理・広報コンサルタント、ライター(個人事業主)として独立、公益社団法人日本広報協会 広報アドバイザーを務める。成瀬映画には1980年代の後半に出会い、2005年の生誕100年の時に、現存する69作品をすべて観た。同年に著書「成瀬巳喜男を観る」(ワイズ出版)、編集協力「成瀬巳喜男と映画の中の女優たち」(ぴあ)に関わり、また1998年から現在までウェブサイト「日本映画の名匠 成瀬巳喜男ファンページ」の作成・運営。2021年からは成瀬映画、小津映画、川島映画などのロケ地を紹介するYouTube「旧作日本映画ロケ地チャンネル」の作成・運営。毎年7月2日の命日に成瀬組のスタッフ、キャストが集まる「成瀬監督を偲ぶ会」の事務局メンバー。