絹子の制作の友はタバコだった。晩年はこれで気管支と肺を悪くした。止めるように何度説得したかわからない。
「タバコもなしに絵が描けるか!」
私はタバコなしで文章を書いている、と返すと嫌そうに黙ってしまった。
最終的には在宅酸素となり、鼻にはカニューレがついた。アトリエに私が付き添い、パレットに絵の具を出す役をやった。絵の具の蓋を開けて中身を絞る力もなかったのである。最後の1年はついに絵筆を握れなかった。絵が描けなくなったら、自分は枯れるように死んでいくだろうと言ったことがある。その予言通りとなった。棺桶には絵筆を数本入れた。天国で浮世のしがらみから解放されて、制作三昧の絹子が、私には見える。

21世紀になって、江見のカンヴァスに描かれる形体は自由に、色彩は一層輝きを増していった。
荻野アンナ
1956年、横浜市生まれ。慶応義塾大学文学部卒。1983年より3年間、ソルボンヌ大学に留学、ラブレー研究で博士号取得。1989年慶應義塾大学大学院博士課程修了。以後2022年まで同大で教鞭をとり、現在名誉教授。1991年『背負い水』で第105回芥川賞、2002年『ホラ吹きアンリの冒険』で第53回読売文学賞、2008年『蟹と彼と私』で第19回伊藤整文学賞を受賞。そのほかの著書に『カシス川』『老婦人マリアンヌ鈴木の部屋』など。2009年より読売文学賞選考委員。2024年4月1日から県立神奈川近代文学館館長。









