現在、ぼくが持っている数百枚のLPレコードやCDはほぼ洋楽で占められている。それも8割以上がロックである。唯一の例外は大瀧詠一が構成・選曲した『アキラ1』から『アキラ4』まである企画盤だけだ。アキラとはもちろん小林旭のことである。
そんなぼくでも無数の歌謡曲のメロディを知っている。それなりに歌詞も知っていて、口ずさむこともできる。カラオケだって歌える。
古い記憶を掘り起こすと、歌謡曲が壁紙だった忘れがたい場面がいくつもある。

右:1964年10月15日発売水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」。星野哲郎の作詞だが名義は有田めぐむとなっている。星野が日本コロムビア専属歌詞のときに書いた作品であり、星野哲郎と名乗れない苦肉の策だったようである。作曲の市川昭介もコロムビア専属の作曲家だったため、いづみゆたか名義になっている。
小学校の何年生だったかは覚えていないが、運動会の選手入場曲として水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」がかかったことがあった。走るのが好きだったぼくは「休まないで歩け~」の歌詞に妙に気分が高揚したものである。後年、初めてのパチンコで大当たりしたときにも、水前寺清子の景気のいい歌声が聴こえていた。つまり、ぼくにはすこぶる縁起のいい曲なのである。
高校時代に好きになった女の子と初めて2人で喫茶店に入ったとき、店内に流れていたのは、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」でも、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」でもなかった。なぜか北島三郎の「函館の女」。彼女と何を話したかは憶えていないのに、北島三郎が威勢のいいイントロのフレーズはしっかり耳に残った。


中央:1965年11月10日発売の北島三郎「函館の女」。作曲は島津伸男。13曲続く「女(ひと)」シリーズの記念すべき1曲目で紅白歌合戦でも歌唱。「女」シリーズは13曲すべて作詞を星野が手がけている。
右:1980年9月15日発売北島三郎「風雪ながれ旅」。作曲を船村徹が手がけた、津軽三味線奏者の高橋竹山の生涯を元にした楽曲で、第1回古賀政男記念音楽大賞を受賞した。紅白歌合戦では7回歌唱しており、大量の紙吹雪が舞う演出が定番だった。












