大学時代に九州を旅した際、友人の実家近くのスナックに行ってじっくり耳を傾けることになったのは、小林旭の「昔の名前で出ています」。店のママの名前がこの曲にも出てくる「ひろみ」で、ママはごていねいに詩が生まれたエピソードまで教えてくれた。作詞家のもとに、あるホステスから何年ぶりかで電話があり、「昔の名前で出ていますから、遊びにきてください」と言われ、そこから詩ができたのだと。ぼくは「作詞家ってすごいですね」と、調子よく相槌を打った気がする。しかし「三百六十五歩のマーチ」や「函館の女」と同様に、作詞家の名前までは意識していなかった。

右:1975年1月25日発売小林旭「昔の名前で出ています」。「自動車ショー歌」同様、叶弦大が作曲を手がけている。小林自身の地道なプロモーション活動により、発売から2年後の77年から売り上げを伸ばし大ヒット曲となった。オリコンシングルチャートで6位まで上昇し、77年度の年間チャートでは5位という売れ行きだった。77年のNHK紅白歌合戦にもこの曲で初出場し、現在まで通算7回出場している。星野哲郎が亡くなったとき、小林は「歌謡曲の中に情感を打ち出せる日本語を書けるのは、星野さんしかいなかった」とその死を悼んでいた。
星野哲郎の名前とその才能に気づいたのは、名画座の特集で『男はつらいよ』シリーズを集中的に観るようになってからだ。遅ればせながら、タイトルロールに星野哲郎の名前を見つけた。それまで渥美清がカラッと晴れ上がった声で歌うあの主題歌は、てっきり監督の山田洋次が作詞したものだと思い込んでいたのだ。それくらい歌詞が映画の内容や寅さんのキャラクターと共鳴している。この段階で、ようやく星野哲郎が紡ぐのは詩であると同時に、物語なのだと理解するようになった。「函館の女」や「昔の名前で出ています」もまさにそうである。
「昔の名前で出ています」に至っては作詞家と歌手の人生がダブって見えなくもない。
星野哲郎は高等商船学校(現・東京海洋大学)を卒業後、一度はトロール漁船の船乗りになるのだが、腎臓結核を患い、下船を余儀なくされる。寝たきりだった闘病中に詩作に励み、雑誌『平凡』の懸賞金付きの歌詞コンクールで入選。この頃から作詞家人生がスタートする。だが、下積みの期間は短くはない。スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」がヒットしたのは6年後。34歳のときだった。その後、「アンコ椿は恋の花」や「兄弟仁義」など、売れっ子作詞家として年間100作以上を手がけるようになる。

右:1982年8月25日発売された鳥羽一郎のデビューシングル「兄弟船」。「海の男」をテーマにした歌で、漁師兄弟の想いが綴られた楽曲で累計売上はミリオンセラーを記録している。鳥羽の人生を変えることになる曲であり、「まさに人生の応援歌」だと、船乗り経験のある鳥羽は言う。通算20回の出場を誇る紅白歌合戦で、鳥羽は7回歌唱している。鳥羽は98年には日本レコード大賞最優秀歌唱賞を「龍神」で受賞した。












