一方、往年の日活のスーパースターだった小林旭も波乱の人生を送っている。1970年代に不動産事業に失敗し、多額の借金を抱え込む。返済の原動力となったのが「昔の名前で出ています」だった。といっても、いきなりヒットしたわけではなく、小林旭は約2年間、地道にキャバレーなどをドサ回りしてミリオンヒットに漕ぎつけている。
しかし、小林旭の甲高い歌声からあまり湿っぽさが感じられないように、星野哲郎が作る詩もジメジメはしていない。基調となっているのはやさしさや明るさだ。本人もインタビューで働く人の「人生の応援歌」を作ることがライフワークだと語っている。「三百六十五歩のマーチ」はその代表曲だし、「男はつらいよ」も愛すべきダメ男へのエールだ。

右:1970年2月10日発売渥美清「男はつらいよ」。作曲は山本直純で、もともとは68年から放送されたテレビ版の主題歌として作られた。映画版第1作の公開は69年ということは、映画版がスタートした後にレコード化されたことがわかる。息の長い主題歌で38万枚のセールスを記録している。前口上のセリフは、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。当初は自分がいては妹・さくらが嫁にも行けないことを嘆く歌詞が、さくらの結婚を期に、どうせ自分はやくざな兄貴というような自虐的なものに変わった。世の中のあぶくのように生きる人々の心に寄り添う、星野哲郎のやさしさが伝わる〝援歌〟だ。
さらに、星野哲郎を語る上で忘れてはならないのが、ダジャレ満載のユーモアソング。小林旭が歌う「自動車ショー歌」、「ゴルフショー歌」、「野球小唄」といった一連の曲を聴くと、今、こんなに陽気で、素っとん狂な詩はないよなあと、あらためて思う。小林旭の乾いた明るさが見事に生かされている。ぼくはこれが聴きたくて大瀧詠一が企画した『アキラ』シリーズのCDを買ったのである。
人は誰も心の中に長い時間をかけて音楽を貯め込み、自分だけの世界を形成している。記憶や体験のコレクションと言うべきその部屋には、壁紙があり、絵画があり、テーブルや椅子や本棚などの家具もある。レイアウトや色彩設計を含め、それは世界にたった一つしかない自分の部屋だ。そんな部屋に身を置くことの幸せを、齢を重ねるほどに噛みしめている。

右:美川憲一は青春歌謡路線でクラウンレコードから1965年にデビューするが、66年の「柳ヶ瀬ブルース」の大ヒットによりムード歌謡路線へと方向を変え歌手としての地位を確立させた。「新潟ブルース」「釧路の夜」などをヒットさせ、68年にNHK紅白歌合戦初出場を果たし、その後も「おんなの朝」、美川の代表曲とも言える「さそり座の女」などをヒットさせ、紅白には通算26回出場している。小林幸子との大仕掛けの衣装合戦は紅白の名物だった。「お金をちょうだい」は、71年11月25日に21枚目のシングルとして発売された。星野哲郎がキャバレーのホステスさんに話をきかされているうちに着想を得た作品で、作曲は「さそり座の女」、黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」、西条史朗「夜の銀狐」などの中川博之が手がけている。ちなみに美川のデビュー曲「だけどだけどだけど」も星野の作詞である。

左:1970年3月1日発売の「長崎の夜はむらさき」は瀬川瑛子(当時は映子)の7枚目のシングルで、長崎市の代表的なご当地ソングの一つ。この作品も星野哲郎のペンネームである古木花江名義での作詞になっている。作曲は、瀬川のデビューに携わり藤正樹「忍ぶ雨」の作曲でも知られる新井利昌。日本有線大賞・期待賞にも輝き、67年のデビュー以来、瀬川にとって約50万枚を売り上げる初のヒット・シングルとなったが、その後なかなかヒット曲にめぐまれず、歌手として花開くのは86年に発売した「命くれない」が、87年度オリコンシングルチャート年間1位を記録するまで待たねばならなかった。NHK紅白歌合戦にも初出場を果たし、通算4回出場している。「函館の雨はリラ色」「長崎霧情」「相生橋」など、星野は瀬川にも多くの詞を提供している。

米谷紳之介(こめたに しんのすけ)
1957年、愛知県蒲郡市生まれ。立教大学法学部卒業後、新聞社、出版社勤務を経て、1984年、ライター・編集者集団「鉄人ハウス」を主宰。2020年に解散。現在は文筆業を中心に編集業や講師も行なう。守備範囲は映画、スポーツ、人。著書に『小津安二郎 老いの流儀』(4月19日発売・双葉社)、『プロ野球 奇跡の逆転名勝負33』(彩図社)、『銀幕を舞うコトバたち』(本の研究社)他。構成・執筆を務めた書籍は関根潤三『いいかげんがちょうどいい』(ベースボール・マガジン社)、野村克也『短期決戦の勝ち方』(祥伝社)、千葉真一『侍役者道』(双葉社)など30冊に及ぶ。最新刊に『小津安二郎 粋と美学の名言60』(双葉文庫)、『シネマ&シガレッツ』(本の研究社)がある。












