薔薇は原節子へのオマージュ
1960年不惑の齢、仕事にマンネリズムを感じ、先行きに危機感をもった。レギュラーの仕事もあったが、4か月間、パリに遊んだ。帰国後、仕事が減るようなら、自分の時代は去ったと思えばいい、人生の余白は十分にある、と自らに言い聞かせた。
パリ遊学で秋山庄太郎は蘇生し、再び女優ポートレートに邁進するが、「第二の青春」のフィナーレを感じた。45歳のときライフワークを「花」と定め、一眼レフカメラ普及とともに写真大衆化の旗手ともなった。しかし、原節子は映画界から既に引退し、レンズの前に立つことはなくなっていた。
「充分に美しいまま去った彼女が、僕の眼には、永遠に咲き続ける薔薇のように映った。僕が好んで薔薇を撮るのも、原節子へのオマージュなのかもしれない」
パリ行きは、大きなターニングポイントとなった。フラワーアレンジメント的な「花」は華道家から絶賛され、アンフォルメルから着想を得た「抽象」は装丁家から高く評価されるに至る。そして、帰国10年後、「男」のポートレートの世界に満を持して取り組むことになるのだが、その話は稿をあらためることにしよう。
秋山庄太郎
1920年東京・神田生まれ、父富三は千葉県鋸南町出身で青果商。3歳まで横浜で育ち、関東大震災被災後、目黒・五本木、谷中・清水町などに居住。13歳のとき、愛犬が背伸びをするところを撮ったのが最初の写真で、以降、趣味となる。府立第八中学校(現・都立小山台高校)を経て、早稲田大学商学部卒業。大学在学中、資生堂社長で写真家の福原信三が主宰する「日本写真会」で作品『猫を捨てる』が福原から評価される。戦後、銀座に写真スタジオ「秋山写真工房」設立後、近代映画社勤務、1951年フリー。日本写真家協会、日本広告写真家協会、二科会写真部、日本写真協会、全日本写真連盟、日本写真芸術専門学校などで要職をつとめ、写真界の発展に尽力。紫綬褒章・旭日小綬章受章。「週刊現代」(講談社)とライバル誌「週刊ポスト」(小学館)の表紙連載を四半世紀にわたってほぼ同時期に担当。「女性」ポートレートをはじめ、「舞台俳優」「文士」「芸術家」「政治家」「子供」のほか、「花」「風景」「人形」「静物」「伝統工芸」「動物」「スナップ」など撮影ジャンルは多岐に及ぶ。2003年畏友林忠彦を記念する写真賞選考会場で急逝。2007年遺志に基づき東京・南青山のアトリエに秋山庄太郎写真芸術館設立。写真による福祉支援も目的として2002年に自ら創設した「秋山庄太郎『花』写真コンテスト」では、災害被災地の施設等に入賞作品や秋山庄太郎撮影作品を寄贈しつづけている。主著に、記事内掲示のほか、『おんな・おとこ・ヨーロッパ』(文藝春秋新社、1961年)、『花・女』(主婦と生活社、1970年)、『作家の風貌 一五九人』(美術出版社、1978年)、『画家の風貌と素描』(サン・アート、1980年)、『花―365日』(小学館、1990年)、『薔薇よ! Rose365』(集英社、1997年)など。映像作品では『花舞台』[音楽:中村由利子](CBS/SONY、1990年)、『MELODY』[同](スリーノーマン、2012年)などがある。
うえの まさと
キュレーター。1954 年東京都大田区生まれ。法政大学法学部法律学科卒業、同博物館学芸員課程修了。出版社勤務を経て、フリー。「サライ」「歴史群像シリーズ」などで企画・編集・執筆、企業広報誌の編集長をつとめる。美術館学芸員を経て、秋山庄太郎写真芸術館館長。編著に『科学からのメッセージ/カラーフィルム』『秋山庄太郎/美の追憶』『写真家秋山庄太郎』など多数。写真による福祉支援も目的とした「秋山庄太郎『花』写真コンテスト」を岳父秋山庄太郎と創設、「秋山庄太郎記念米沢市写真文化賞」などの審査、災害被災者支援、花や風景の撮影活動や写真文化活動支援、児童から高齢者まで対象に写真をたのしむワークショップなどに取り組んでいる。日本写真協会、全日本博物館学会、秋山庄太郎写真芸術協会、東京町田ペンクラブ会員。