きら星のごとく並ぶ
著名な寄稿者たち
『花椿』の表紙は人物か静物が多い。戦前の表紙の人物には、働く女性像、新橋や柳橋の粋な若い芸妓さん、子役時代の高峰秀子も登場する。
内容は、巻頭あいさつにあった「美容、服飾、流行、趣味、学芸、その他近代女性に資すると思われるもの」が中心。創刊号には「十一月の化粧・結髪」、美容相談、帯の話、陶芸家富本憲吉訪問記、映画・書籍紹介、横山隆一の漫画が載っている。これに随筆や小説、海外流行情報、見学記を盛り込み、読者の視野を広げようとした。
化粧・美容記事以外は外部に依頼しており、横山隆一の「マンガパレス」は休刊まで連載され、とびら頁に各月の詩歌が加わった。詩歌を寄せたのが深尾須磨子、堀口大學、室生犀星、水原秋桜子、飯田蛇笏、佐々木信綱、野口雨情、与謝野晶子ときら星のごとくなら、エッセーや小説に筆を競ったのも尾崎一雄、坪田譲治、田村泰次郎、高見順、西條八十、獅子文六、村松梢風、石黒敬七……と多士済々だ。
このあたり『花椿』が本物志向だったことがうかがえる。資生堂のある銀座はとくに大正から昭和にかけて時代の最先端をいく街で、資生堂パーラーが著名人・文士が集うサロンだった面影も見てとれる。
この方針は戦後も変わらず、多彩な執筆陣がそろう。源氏鶏太に壺井栄。古屋信子にサトウハチロー、谷川俊太郎、大岡信、澁澤龍彦に植草甚一。佐藤愛子が「女の顔」を評すれば、富岡多恵子が「男と女」を語り、向田邦子が「男の告白」で男性観察を披露する。『ローマ人の物語』を書く前の塩野七生や黒柳徹子が連載を担っていた。
昭和モダニズムを
リードした『花椿』
ところで、化粧品事業を主力にすえた初代社長で『花椿』刊行を指揮した福原信三は、写真家としても知られる。一時は画家を志し、アメリカ留学後滞在したヨーロッパで最新の芸術潮流にふれ、パリでは梅原龍三郎、藤田嗣治ら多くの画家と交流している。
そうした彼の信条は「リッチ」。金銭的豊かさではなくて、美意識の豊かさを意味していた。化粧品開発を含めたクリエイティブな活動全般に「リッチでスマートでモダンである」ことを求めたのだ。その哲学は当然、広告や『花椿』の編集方針を貫いていた。
そして「モダン」といえば、時代はまさに昭和のモダニズム。大正末期から銀座をはじめ都会に「モダンガール(モガ)」が登場する。モダンガールの絶対条件は洋装より毛断=モダン。洋風の断髪で、髪型こそ女性のファッションをリードしていた。『花椿』が化粧法とともに髪型の流行を発信したのは当然だったろう。
モダンはファッション、化粧・美容のみならず、昭和の生活文化のキーワードとなった。グラビア頁でスキーやゴルフを楽しむ女性。入江たか子主演の映画や欧米のスターが競演する洋画紹介に胸をときめかせ、読者はモダンで快適な生活に憧れた。しかしその夢も『花椿』を休刊に追い込む戦争の足音によってしばしついえ去った。