◇若・貴・曙で開けた平成の大相撲
若・貴兄弟が昭和63年に入門し、一年半後の平成の扉を開けました。63年入門組は、若乃花、貴乃花、曙の3人横綱、大関・魁皇らの活躍で相撲人気が大きく盛り上がりました。若・貴兄弟は、父親が角界のサラブレッドといわれた大関貴ノ花、注目されるのは必然でしょう。
写真【第65代横綱・貴乃花は平成の相撲ブームを担う。平成3年5月場所の初日、前頭の貴乃花は、小さな大横綱として十年間君臨してきた横綱千代の富士と初めて対戦する。勝負は鋭い突っ込みで右を差し、頭をつけ千代の富士に得意の左まわしも与えず、左からも強く押し付け横綱の右手も封じ堂々と寄り切り。18歳9か月の最年少金星だった。千代の富士は翌々日の貴闘力戦に敗れ引退した。平成13年5月場所の横綱武蔵丸との優勝決定戦では半月板損傷の重傷を負いながら、驚異的な精神力で武蔵丸を倒した時の、「鬼の形相」は話題となった。表彰式では「痛みに耐えよく頑張った! 感動した!」と小泉首相の絶叫するような祝辞に相撲ファンは胸を熱くした。しかし、この怪我の代償は大きく、平成15年1月場所、引退した】
平成7年11月場所、賜杯をかけての兄弟対決はテレビ視聴率58%を記録しました。勝負は兄・若乃花が右四つになり、左からおっつけて頭を付けます。貴乃花にまわしを与えないまま、寄りたてて下手投げで勝ちました。若乃花の「(兄弟対決は)辛かった、パレードで旗手をつとめた貴乃花がもっと顔をあげて! 笑って! と言ってくれたが笑えなかった。もう勘弁してください」と漏らした言葉が忘れられません。「ああ、落ち着くべき形で決着した」と私は納得していました。
写真【第66代横綱・若乃花は、179センチ、119キロ、土俵を目まぐるしく動き回り、ファンの喝さいを浴びた。技能賞6回、投げ技、足技など小兵力士独特の技が冴えた。平成5年3月場所新横綱の曙と対戦、絡んだ右足をはね上げ、下手投げで巨体を倒す。もつれた相撲で額から落ち、顔が剥け血を流しながらの大熱戦の末、初優勝を飾った。優勝3回、度重なる怪我に悩まされ、平成12年3月場所5日目に29歳の若さで引退した。写真は平成12年9月23日断髪式の若乃花。杉山氏も鋏を入れた。最後に父であり師匠の二子山親方が止め鋏。大銀杏が切り離された瞬間、シーンとなっていた館内に大きな拍手が沸き起こった】
ハワイ出身力士として高見山が道を開き、小錦がさらに広げ、のちに続いたのが曙でした。曙は入門僅か2年で十両に昇進するというスピード出世でしたが、来日して2年の間に、通訳を交えず日本語で会話ができるほど学習していたのです。ハイビジョン番組で曙を取材したとき、「ボクはいま英語を忘れようとしているのです。日本語を覚えなければホントの相撲は覚えられません」と言った曙の学習意欲と、彼が日本の文化、国技と言われる大相撲に取り組む姿勢が十分伝わってきました。師匠の東関(高見山)が、「曙は一を聞けば十が分かるほど利口な男だ」と言ったのを覚えています。
写真【ハワイ出身の大関小錦は、昭和57年6月、東関(高見山)にスカウトされ高砂部屋に入門。入門後わずか2年後の昭和59年9月場所で、千代の富士、隆の里、大乃国などを次々破り「黒船襲来」と恐れられたが初優勝を逃す。入門8年目で初優勝。小錦旋風で「技よりもパワー」と言われる時代を迎えた。「人のために何かやっていなければ、サリー(小錦の愛称)お前はただの肉の塊だよ」とハワイの父から言われていた小錦は、老人ホームや障がい者施設を積極的に訪ね、ボランティアに取り組んでいた。平成7年の阪神・淡路大震災後には、力士会の会長だった曙と相談し、神戸で炊き出しのちゃんこ鍋を提供し、積極的に会話をした。 】