日本ビクターにも青春路線がある。ジャズ喫茶<銀座ACB>に飛び入り出演してスカウトされ、昭和39年に「霧の中の少女」でデビューした久保浩。同じ吉田正門下の橋幸夫、三田明に続くビクター期待の新星だった。「霧の中の少女」は哀愁を帯びたメロディと、甘い歌声が若い女性たちの〝ハートをつかみ〟久保浩最大のヒット曲となり、この1曲で昭和歌謡史に名を刻む歌手として、今も人々の記憶に残る。ビクターも協賛番組を持っていて、久保のデビュー当時には、日本テレビ系「ビクター歌のパレード」、TBS系「ビクター愛のスタジオ」などが放送され、久保もよく出演していた。また、昭和40年にNHKで放送され、人気若手歌手6人の出演が話題となったドラマにもメインキャストの1人として田辺靖雄、三田明、梓みちよ、九重佑三子、いしだあゆみらと一緒に出演していたことからも、当時の人気ぶりが知れよう。
ここで、美樹克彦にも登場してもらおう。目方誠の本名で子役として70本近くの映画に出演していたが、同時に歌のレッスンも行っていて、中学生で歌手としてもデビューしている。昭和40年、高校2年生のとき芸名を美樹克彦に改名し歌手として「俺の涙は俺がふく」で日本クラウンから再デビューした。そう、クラウンということでは、西郷輝彦の後輩に当たる。アイドルの中でもワイルド系路線を本領として、翌年にリリースした「回転禁止の青春さ」がヒットし、クローズアップされた。日本クラウンの協賛番組に、昭和39年から40年に日本テレビ系で放送された「歌う王冠(クラウン)」があった。西郷や北島三郎、水前寺清子らと共に美樹克彦もよく出演していたのを思い出す。「回転禁止の青春さ」の、派手なアクションが印象に残っている。
美樹克彦の人気を決定付けた曲と言えば、昭和42年発売の「花はおそかった」だろう。この曲でNHK紅白歌合戦にも出場した。曲のラストで「バカヤロー!」と叫ぶのが印象的で、「バカヤロー!」と叫ぶのは、その後のアイドル歌手、西城秀樹「白い教会」、近藤真彦「ブルージーンズメモリー」に、しっかりと引き継がれている。また、テレビ史に刻まれるバラエティ番組「オレたちひょうきん族」で、明石家さんま扮するブラックデビルのテーマ曲「好きさブラックデビル」の作曲を手がけ、美樹克彦と同時期にやはりクラウンからデビューしていた「新聞少年」などのヒット曲がある山田太郎とのユニット名「オレたち・昔アイドル族」として歌っていたのを覚えている人もいるだろう。さらには、作曲を手がけ小林幸子とのデュエットでリリースした「もしかしてPARTⅡ」は、今でもカラオケのデュエット定番曲として、多くの人々に親しまれている。だが、今、聴きたい曲は、やはり「花はおそかった」である。