岩谷時子のなかのヨーロッパの香り
若い頃の彼女はどうだったのだろう。
当時の彼女を知っている唯一の現役ジャーナリストになる1933年生まれの音楽評論家の安倍寧さんに話を聞いたことがある。
彼は笑いながらこんな話をした。
「ドロドロした芸能界の中の、泥池に咲いた一輪の蓮の花みたいなところがあって。
「聖女、岩谷時子」ってみんな呼んでいたよ。大人だったんだろうね。詞も新しい新鮮な日本語でつづられているんだけれど香りがある。詞を書く前から、彼女には人柄にそういう香りがあったんだろうな」
人柄に香りがある──。
それはどんな香りということなのだろう。
彼はしばらく考えてから「ヨーロッパの香りでしょうね」と言った。そして、「宝塚もありますよね」と付け加えた。
彼女のことを書くようになってから、戦前の日本のモダニズムの中での宝塚の影響の大きさを初めて知った。彼は、アメリカの影響は戦後ですよ、と言った。それまでの〝西洋の香り〟というのはヨーロッパだった。シャンソンである。そして、その窓口になったのが〈宝塚〉と〈東和商事〉、後の〈東宝東和〉だったと言うのである。
岩谷さんが、宝塚の出身であることは広く知られている。1939年に入団した彼女は、「歌劇」「宝塚グラフ」の編集をしていた。彼女の生まれは京城、今のソウルで、宝塚ファンの彼女の母親は京城の行政長官の娘だった。
──私が現在、生業(なりわい)としている作詞の仕事こそは、まぎれもなく宝塚という夢多い演劇と音楽の土壌から生まれたもので、また今もなお、華やかで虚しい芸能界から離れられずにいるのも、宝塚での甘美な思い出が忘れられないためである。
彼女は唯一のエッセイ集『愛と哀しみのルフラン』で、そう書いている。
越路吹雪のマネージャーとして上京してきた岩谷さんが、一時、東宝東和の映画のキャッチコピーを書いていたと安倍さんが教えてくれた。まさに〝ヨーロッパの香り〟の人だったことにならないだろうか。
彼女の詞と宝塚の関係について『越路吹雪物語』に主演したピーターはこう言った。
「どんなに情熱的な恋を歌っても性的な生々しさや嫌らしさがない。宝塚の人たちは、絶対に超えられない〝性の限界〟があることを知ってますからね。宝塚あっての詞なんだと思います」