今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
セクハラやコンプライアンスなる概念、ましてや「Me Too」運動など、影も形もなかった時代に生きた俳優、森繁久彌。女性に対する奔放な言動でも知られるが、当事者たちから反発がなかったのは、その生き様が軽やかで清々しいものだったからに違いない。
芸歴においても、映画のみならず、舞台、テレビ、ラジオ、歌(作曲)、声優など様々なジャンルで誰もが知る代表作をもつ人間など、森繁をおいてほかにない(※1)。
森繁久彌を語るとき、真っ先に取り上げられるのが『社長』と『駅前』の両シリーズである。実際1960年代の東宝のプログラムは、これらの森繁喜劇を中心に回っていたといっても過言ではない。『社長』ものは正月興行を任されることが多く、『駅前』の方も年二本のペースで連作され、61年以降は主にクレージー映画(※2)とのカップリングで東宝の屋台骨を支えた。
森繁の次男・建(たつる)氏は、「黒澤明があんなにお金をかけて映画を撮れるのは、おれが社長シリーズで稼いでいるからだ」と父が言い放つのを、直接その耳で聞いている。かねて、人足Aとして配役された『七人の侍』に出演しなかった森繁であるから、黒澤明という〝権威的なるもの〟への反発心があったことは確か。実際、黒澤作品への出演は一本もない。
共に『次郎長三国志』に出ていた加東大介(※3)が、黒澤の命により『七人の侍』に引き抜かれていくのを目の当たりにしたことが、反発の引き金となったとも考えられるが、これに関する森繁の発言は残されていない(※4)。
黒澤に反抗したのは森繁だけではない。社長シリーズの盟友・三木のり平は、『天国と地獄』(63:併映は『続社長漫遊記』)で江ノ電の運転手役(実際には沢村いき雄が演じた)にキャスティングされた際、オファーしてきた助監督の「あんたを黒澤映画に使ってやる」的な〈上から目線〉の態度に立腹、出演をきっぱりと断ったと自著で明言している。
これに対し、森繁とは腹を割った間柄だった山茶花究が『悪い奴ほどよく眠る』(60)と『用心棒』(61:併映は『社長道中記』)に、駅前シリーズの相棒・伴淳三郎が『どですかでん』(71)に出演。それぞれ儲け役を得たのは、映画ファンならよくご存知のことであろう。
当の森繁は、『三等重役』や『次郎長三国志』シリーズ(森の石松役)でのブレークにより、昭和20年代末には東宝のみならず、新東宝、大映など複数の映画会社を行き来する人気俳優となっていた。1953(昭和28)年に「五社協定」(俳優等の引き抜き禁止に関する申し合わせ)が結ばれたのは新生日活への対抗策であったが、まさに森繁のような活動(すなわちギャラアップ)を規制するためのものでもあったのだ。
かくして東宝は、森繁を傍系会社にプールするという手に出る。これが「東京映画」で、監督では川島雄三や佐伯幸三、俳優ではフランキー堺や伊藤雄之助、山崎努(意外!)、淡島千景、淡路恵子、池内淳子、乙羽信子などが所属。『駅前旅館』(58)に始まる駅前シリーズもここでつくられている。
奔放な言動で知られた森繁だけあって、会社や監督には様々な場面で物議を醸す発言を残しているが、何はともあれ『夫婦善哉』(55:豊田四郎監督)の話をせねばならない。