尾崎豊の「卒業」(85)、斉藤由貴の「卒業」(85)、レミオロメンの「3月9日」(04)、ケツメイシの「さくら」(05)、アンジェラ・マキの「手紙~拝啓十五の君へ~」(08)、いきものがかりの「YELL」(09)、秩父市の中学校教員が作った合唱曲の「旅立ちの日に」(91)など、「卒業」をテーマにした曲は多い。別れと旅立ちが交錯する「卒業」は、さまざまなドラマがあり、忘れられない青春の一コマだからだろう。
好きな卒業ソングは、世代によっても違いがあるだろうが、私にとって卒業ソングといえば、柏原芳恵の「春なのに」なのである。1983年1月11日に12枚目のシングルとしてリリースされたこの曲は、中島みゆきの作詞作曲である。レコーディングには中島みゆき自身もスタジオを訪れ、曲の世界観の拡げ方などをアドバイスしたようだ。アイドルに提供した初の曲で力が入っていたのだろう。
セーラー服姿の柏原芳恵が髪をなびかせ、潤んだ瞳でじっと見つめるジャケット写真が印象的だった。曲の主人公は高校2年の女子学生。好きな人はひとつ上の先輩で、サークル活動などが一緒だったのではないかと勝手に想像をする。卒業式を前に、一大決心をして喫茶店で先輩と向かい合うと、「君の話はなんだったの」と言われてしまうのだ。鈍感な先輩だ。記念に「ボタン」をもらい、諦めようとそのボタンを投げ捨てようとするが、そう簡単に想いは断ち切れない。だから、ため息ばかりが出てくる。
主人公の女子学生と同じように、もどかしく切ない想いを抱えて好きな人を見送った経験をお持ちの方も多いのではないだろうか。リリース時の83年(昭和58)、柏原芳恵は17歳で高校2年生だった。等身大の柏原芳恵が自身の想いとして歌った「春なのに」は多くの人の心に響き、愛されてきた。「ハロー・グッバイ」(81)には及ばないまでも大ヒットとなり、NHKの紅白歌合戦にもこの曲で初出場した。
「春なのに」と同じように、斉藤由貴の「卒業」にも登場するのが「制服のボタン」である。私の学生時代の卒業式には、女子学生が好きな男子から「詰襟学生服の第二ボタン」をもらう習慣があった。なぜ「第二ボタン」だったのなのだろう……。
ある学生服メーカーのホームページによると、詰襟学生服の5つのボタンには、一番上は自分、2番目が一番大切な人、3番目は友人、4番目は家族、5番目はその他の人というように、ボタン一つひとつに意味があるそうだ。第二ボタンは、心臓に一番近いところにあり、好きな人の「ハート(心臓)をつかむ」ものとされたのだ。なるほど……。
もう一つの説は戦時中の悲恋物語によるものだという。強制的に戦場に行かなければならなかったあの時代、生きて帰れる保証はなかった。好きな女性に、「自分の分身として大切にして欲しい」という想いを込めて、ボタンを渡したのだという。物資不足で軍服の用意ができなかった学生たちは、学生服で出征した。一番上のボタンを外すとだらしなく見えてしまうため、第二ボタンだったというのだ。
明治時代に導入された学生服は、エリートの象徴だった。その襟元の金ボタンは特別のものだった。ある制服専門店のボタンコレクションの額縁の中には、金ボタンに交じって陶器製のボタンが収められている。金属が不足していたためボタンも陶器で作られていた時期もあったのだ。出征する男性も見送る女性も、「ボタン」に込められた想いは、命がけで重いものだった。
現在の中高生の卒業式にこの習慣はあるのだろうか……。ブレザーを制服にする学校も増え、学生服を着た男子学生もあまり見かけなくなった。そのうえここ2、3年はコロナ禍で、卒業式が思うようにできなかったという。学生たちが不憫だ。
柏原芳恵は、79年秋の日本テレビ系「スター誕生!」で清水由貴子の「お元気ですか」を歌って合格、その後グランドチャンピオンになり翌年の6月、「柏原よしえ」の芸名でデビューした。82年のシングル「花梨」の発売と同時に本名の柏原芳恵に改名した。
「春なのに」の後も、「カム・フラージュ」(83)、「最愛」(84)、「ロンリー・カナリア」(85)と中島みゆきの楽曲提供は続いた。中島みゆきの曲で開花した柏原芳恵は、魅力的な大人の女性になっていった。
そういえば、今上天皇もオックスフォード大学に留学する直前の記者会見で「好きな歌手は、柏原芳恵さん。『春なのに』がいいですね」とおっしゃったことを思い出した。コンサートにも訪れ、ローズピンクのバラ「プリンセス・サヤコ」を一輪贈ったという。しかも東宮御所に咲いていたものだったとか。直接手渡された柏原芳恵は緊張と感動でいっぱいだったことだろう。素敵なエピソードだ。
「春なのに」は、今上天皇にとっても、忘れられないドーナツ盤に違いない。
文=黒澤百々子 イラスト:山﨑杉夫