シリーズ わが昭和歌謡はドーナツ盤
1962年(昭和37)、詰襟と金ボタンの制服に初めて手を通したピッカピカの中学一年生になった頃、日曜日の昼12時30分からの「森永スパーク・ショー」(フジテレビ系列)が楽しみだった。わずか30分の音楽バラエティ番組で、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの3人のお姉さんが司会(MC)を兼ねて舞台(スタジオではなかった)で歌ったり踊ったりしていた記憶がある。番組名から〝スパーク三人娘〟と名付けられていた。洋楽が日本語に訳詞されて〝和製ポップス〟華やかなりし時代の、ちょっと不良性感度が抜群の番組だった。アメリカンポップス(ロックンロール)で、スパーク(火花)させて昭和の若者たちを活気づけてくれたのだった。
アイドルなどという言葉もなかった時代、まだ十代の三人娘は、それぞれ渡辺プロダクションに所属してレコード・デビューした。伊東ゆかりは、1958年6月(11歳)「かたみの十字架/クワイ河マーチ(映画『戦場に架ける橋』テーマソング)」でキングレコードから本格デビューしていたが、中尾ミエは1962年「可愛いベイビー」の大ヒットとともにデビュー、園まりも同じ年に「鍛冶屋のルンバ」で歌手デビューを果たした。
三人娘はそれぞれ個性があった。一番おきゃんで目立ったのは中尾ミエで、音域の幅が広く歌唱もうまくて三人娘のリーダー的な存在だった。園まりは年長だったせいかおっとり感があってお嬢様のように声も小さく、人を押しのけて舞台の真ん中に立つようなことが少なかった(ように思う)。そして伊東ゆかりは、正直に申し上げると〝山出し〟の感拭えず、どこか垢抜けしない芋っぽさが残っていた(中学生になったばかりの筆者の記憶だが、同世代に問うても同じような印象だったという)。
かくて三人娘は、第14回(1963年)~第15回と続けてNHK紅白歌合戦にも出場したり、人気の音楽バラエティ番組「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)などにも出演したりするなど知名度は全国に広がっていった。とはいえ、もともと音楽ユニットとして結成されたわけではなく、それまで洋楽、和製ポップス系歌手だった伊東ゆかりが20歳になって、いきなり大人っぽい女性(!?)になって生まれ変わったのだ。ソロで歌った1967年2月10日にリリースされた「小指の想い出」(作詞:有馬三恵子、作曲:鈴木淳)が爆発的にヒットしたのだった。何と36枚目のシングルにして100万枚超えの大ヒットである。
1967年末「第9回日本レコード大賞」歌唱賞を受賞し、同年大晦日の「第18回NHK紅白歌合戦」では「小指の想い出」を歌唱した。1967年内のおよそ10カ月で売上は100万枚を突破し、1968年11月時点での売上は公称150万枚と記録されている。続いて1968年にリリースされた「恋のしずく」(作詞:安井かずみ、作曲:平尾 昌晃)もその余勢を駆って大ヒットし、いずれも今日まで昭和歌謡の金字塔であり、伊東ゆかりの代表曲と言っていいだろう。
素朴な田舎からのぽっと出の女子が、見た目も美しい女性となって歌唱する「小指の想い出」の歌詞を、中学生の分際でどう読んでいたのか、恐らく邪な妄想に駆られていたに違いない。遠い日の思い出は記憶の彼方にあるが、ドキドキしながら好きな女子の細い小指を思い描いて、悪戯っぽく歯を当ててみたくなったのではないだろうか。明日に痛いほど、噛むなんてトンデモナイ、可哀そうだろう、なんて。それとも彼女の恋心が、小指をそっと唇に押しあてて僕をしのんでくれるだろうか、と祈るばかりだったのか。同世代の男たちはいつか彼女の小指をそっと噛むことを夢見たのではないだろうか。