ベンチャーズや、ビートルズ、ローリング・ストーンズなど欧米のロック・グループの影響を受け、1967年から69年にかけて日本の音楽界で大流行したグループ・サウンズ。略称GS。60年代後半から、ジャズ喫茶やゴーゴー喫茶を中心に活動していたが、ビートルズなどのイギリスのロック・バンドの人気が日本でも高まりをみせるなか、65年5月に、田辺昭知とザ・スパイダースが「フリフリ」をリリースした。これが、日本のグループ・サウンズの最初のレコード化とされているようだ。そして、66年3月には、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳」をリリースした。スパイダースやブルー・コメッツが人気グループとなり、ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックス、ザ・ワイルドワンズ、ザ・ゴールデン・カップス、ザ・カーナビーツ、ヴィレッジ・シンガーズ、ザ・ジャガーズなど日本でもエレキギターなどを自ら演奏しながら歌うグループが、次々とデビューするようになる。GSブームがピークを迎えたとされる68年夏頃には、100を越えるグループがレコード・デビューを果たしていた。
60年代当時の日本では、GSには欠かせないエレキギターや、長髪スタイルは不良の要素として、非行に結びつけられ社会の風当たりが強かった。ファッションもミリタリールックやサイケデリック的なものが多かった。そんな中で、ブルー・コメッツはいわゆるサラリーマン風の髪型で、スーツ姿だったせいか、アイビー・ファッション系のワイルドワンズと共に、NHKへの出演が認められていた。実際タイガースなどは、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など数多くの大ヒット曲がありながら、紅白歌合戦はおろか、NHKの歌謡番組には出演が許されなかった。ソロ活動を始めたジュリーこと沢田研二が紅白に初出場したのは72年で、タイガースとして初めて紅白に出場したのは89年のことで、特別枠扱いだった。
ブルー・コメッツのステージ衣装はスーツで、志向性の強いイタリアン・ファッションの先駆けとして知られ、レーシング・ドライバーでモデルでもあった福澤幸雄がブランド・イメージを務めていたエドワーズの特別あつらえのスーツだった。「バラ色の雲」や「亜麻色の髪の乙女」のヴィレッジ・シンガーズ、「小さなスナック」のパープルシャドウズ、「真冬の帰り道」のザ・ランチャーズなども短髪系のヘア・スタイルで、ロンドンのモッズ系のようなスーツ姿が多かった。パンツの裾が短めで、アンクルブーツスタイルがカッコよかった。
ジャッキー吉川とブルー・コメッツが紅白歌合戦に初出場したのは、「ブルー・シャトウ」の大ヒットの前年66年の日本コロムビア(CBSコロムビアレーベル)からリリースした「青い瞳」のヒットによるものだった。この年にはビートルズ日本公演で前座を務めている。これはひとえに、他のグループ・サウンズよりも圧倒的に音楽的水準が高かったことが大きい。すべてのメンバーが、読譜力に優れ、作・編曲ができたという。当時のメンバーは、ジャッキー吉川(ドラムス)、高橋健二(ベース、ボーカル)、小田啓義(キーボード、ボーカル)、三原綱木(ギター、ボーカル)、そして井上忠夫(後に井上大輔、フルート、サックス、ボーカル)の5人だった。
「青い瞳」の作詞は、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)、「真夏の出来事」(平山三紀、現・平山みき)、「青いリンゴ」(野口五郎)、「あなたがいたから僕がいた」(郷ひろみ)など筒美京平とのコンビで多数のヒット曲を手がけた橋本淳で、作・編曲は井上忠夫である。橋本淳は、タイガースの「モナリザの微笑」「シーサイド・バウンド」、ザ・ゴールデン・カップスの「長い髪の少女」、ヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」、オックスの「スワンの涙」など、多くのグループ・サウンズに詞を提供している。ブルー・コメッツは「青い瞳」の後も、「青い渚」、テレビドラマの主題歌にもなった「何処へ」など順調にヒットを連ねていった。