演劇史の残る数々の名作生んだ「帝劇」百年のロマン
SPECIAL FEATURE 2011年10月1日号より
明治四十四年、日本初の西洋式劇場として開場した帝国劇場が今年百年を迎えました。観客席に座席番号をつけ、チケットのもぎりを実施するなど近代的な劇場運営は帝劇から始まりました。様々な劇団に門戸を開放し、古今東西の名作を舞台にのせ、芸術性と大衆性を融合させることに努めた帝劇から、新しい文化が生まれたのです。大正時代の三越百貨店の広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」は流行語にもなり、そこには、「帝劇を見ずして芝居を語ることなかれ」とも記されています。現在の建物は二代目で、昭和四十一年にお披露目されました。以来、数々の名優が舞台を彩り、演劇史に残るいくつもの名作が帝劇から誕生します。そして今、俳優たちが「聖地」とも呼ぶ帝劇の百年目の開幕ベルが鳴り響きます。
写真提供:東宝株式会社 演劇部
「帝国劇場」が生み出したもの
文=山川 静夫
旧帝劇で上演された歌舞伎と宝塚
昭和二十七年─大学生になったばかりで東京にはあまりなじみのない頃だった。いい陽気の五月だったと思うが、学友と二人で渋谷から有楽町まで徒歩で散策したことがある。
青山から赤坂見附、三宅坂から桜田門というコースを、田舎者よろしくのんびりと歩いて、日比谷交叉点に立った。右手の日比谷公園の前には赤レンガの帝国ホテル、左手の皇居濠端前には帝国ホテルと同じ色調の古めかしい建物が見えた。これが私の帝国劇場との出会いだった。その時は「あれが帝国劇場か」という程度の印象だったが、昭和二十七年といえば帝劇の第三期(一九四五〜一九六五)に当る。
それからしばらくして、歌舞伎好きの学友に誘われて歌舞伎座で観劇したのがきっかけで〝芝居狂い〞に火がついた。声色を覚え、大向うから声を掛け、それが歌舞伎通の古老に認められて大向うの会に入り、東京の各劇場は〝木戸御免〞となる。帝国劇場に初めて入場したのは昭和二十九年十一月の関西歌舞伎公演の時だ。焼け残りの古い帝国劇場はすでに老朽化していて、三階席には時折ネズミが顔を出すといううわさもあったが、そんなことには無頓着の私は、初日から千穐楽(せんしゅうらく)まで一日も欠かさず帝劇に通い詰めた。特に二代目鴈治郎の『引窓』に魅せられ、連日「成駒屋!」と声を掛けまくり、鴈治郎に喜ばれた。
その頃、小学生だった私の家内は宝塚に夢中で、浅草橋から帝劇に通っていた。東京宝塚劇場が進駐軍に接収されていて、宝塚公演はすべて帝劇だったのである。家内は今でも往時をなつかしむ。
「越路吹雪の『カルメン』がすごく大人っぽく見えてねえ。『河童まつり』の八千草薫が可愛く、『源氏物語』の春日野八千代がこの世のものとも思えぬ美しさ。『ジャワの踊り子』では明石照子、淀かほる、寿美花代がよかったわよ!」
少女たちにとって、この帝劇の宝塚公演は夢の世界だったのだろう。
この第三期で忘れてならないのは、昭和二十六年二月から三月にかけて上演された〝第一回帝劇コミックオペラ〞『モルガンお雪』で、日本のミュージカルのさきがけとなった作品だろう。菊田一夫作、宝塚のプリマ越路吹雪・古川緑波・森繁久彌という出演者だから、その舞台の楽しさは容易に推察することができる。しかし、本格的なミュージカルが日本に根づくには、まだ時節を待たねばならなかった。旧帝劇は昭和三十年一月からシネラマ映画の専門館となり、やがて建て替えとなる。