映画は死なず 実録的東映残俠伝
─五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀─
文=多田 憲之(東映株式会社 代表取締役会長)
ただ のりゆき
1949年北海道生まれ。72年中央大学法学部卒業、同年4月東映株式会社入社、北海道支社に赴任。97年北海道支社長就任。28年間の北海道勤務を経て、2000年に岡田裕介氏に乞われて東京勤務、映画宣伝部長として着任。14年には5代目として代表取締役社長に就任し20年の退任と同時に取締役相談役就任。21年6月、現職の代表取締役会長に就く。
企画協力&写真・画像提供:東映株式会社
私は北海道出身だ。東映に入社したとき希望の事業所を第一希望北海道支社、第二希望北海道支社、第三希望北海道支社……北海道支社と書いて提出した。当時は3年ローテーションで、新入社員が入ると3年目の社員が本社に戻るというシステムだった。事業所というのは教育の場でもあったが、私が入社した2年後には新規採用がなくなってしまい、ローテーションの仕組みが途切れてしまった。3年くらい経つとそれなりの戦力になっている。そうすると、3年経ったから本社に来いといわれても、事業所の支社長が「待った」をかける。私の場合、組合の委員長として来いと言われたことがあった。会社の仕事でなく労働組合の仕事をするために東京に来いと言われても、それはないだろうということで、辞退した。
そのうち、結婚して、子供も生まれて、家も建てる。そうすると、東京に行こうなんていう気持は、さらさらなくなる。東京本社と同じ給料で、北海道は東京より物価は安い。しかも通勤時間は30分程度。本社勤務となって、1時間半くらいかけて通勤するなんて、到底考えられなかった。雪の北海道支社では、ドラム缶10本分の燃料手当も出ていた。結局、北海道支社には、ほぼ28年間勤務し続ける結果となった。
入社29年目にして、岡田裕介の指名で本社に来いと言われたときは、やっていけるかなという不安もあったが、それでも、どこかで、「やってやるぞ」という期待半分もあり、申し出を受けることにした。本社の映画宣伝部長として2000年7月に異動となった。最初に関わった映画は2000年12月16日に正月映画として公開された、深作欣二監督『バトル・ロワイアル』だった。2001年の正月映画には当初高倉健主演の『ホタル』を上映する予定だったが、それが吹っ飛んだ。まだ準備も進んでいない状況下で、『ホタル』の製作陣はご本人たちの了解も得ず、勇み足で正月映画としての公開に組み込んでいたということらしい。『ホタル』の公開が延期になったことで正月映画として公開できる映画がなく、どうしたものかという状況だった。