2016年4月1日号「街へ出よう」より
2015年は昭和90年、戦後70年の節目の年であった。
もはや「昭和は遠くなりにけり」だろう。
空襲で家を失ったもの、夫や父親を失った遺族の苦労、
あらゆる生活用品が不足した敗戦直後。
大人も子供も力をあわせ、良く働いた。
苦しかったあの時代、
いま振り返るとそこには家族の温もりがあった。
幸せを生んだ昭和の家
~貧しくとも楽しいわが家の記憶~
文・太田和彦
小さなちゃぶ台を囲んだ楽しい夕餉
昭和時代は1926年から1989年までの64年間。戦前が20年、戦後が44年。私の生まれは昭和21年(1946)で、昭和が終わった年には43歳。生後から中年までの人生は昭和とともにあった。
敗戦直後の生まれはどん底からのスタートだ。衣食住、教育、病院、何もかもが不足していた。唯一の娯楽であるラジオは夕方の淋しい頃、戦争で行方不明になった身寄りを探す「尋ね人」という時間があり、「○○県出身の△△さんを探しています」と言うアナウンサーの声をはっきり覚えている。戦争で親も家もなくして浮浪児となった子供は保護施設に収容された。その施設を描いたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」を熱心に聴き、自分もそうなっていたかもしれない、親も家もある自分は幸せだと思わなければいけないと心を引き締めた。
私の家は貧しかったが、日本中がそうであるから当たり前で、逆にほんのたまに新調の服で学校に行くと級友から冷やかされ、むしろぼろ着のままでいたかった。食卓にのぼる品は貧しく少なく、食べ物を残すということは考えられず、母はもっと良い’もの、栄養のあるものを子供たちに食べさせてやりたいという気持ちがつねにあっただろう。
父は幼い子ども三人をかかえた日々を身を粉にして働いていた。勤めを終えるとまっすぐ家に帰り、着物に着替える。夕食は父が帰るまで決して始められず、家族全員が揃わない食卓というものはあり得ない。小さなちゃぶ台を囲み、母の心づくしの晩酌の一杯が二杯三杯になるころ父は「どうだ学校は」と子供たちの様子を聞いた。
忘れられないサンタの贈り物
子供が家を手伝うのは当たり前で、私の仕事は風呂焚きだ。それは、水道がないから川の溜め水をバケツで運ぶ作業から始まり、何往復もしてようやく一杯になると焚きつけだ。湿った薪はよく燃えず、まず小枝、そして中枝、最後に割った薪とコツをおぼえ、火吹き竹と団扇をあやつった。寒い信州の水はなかなか暖まらず四時間くらいかかる。村に銭湯はなく、どこの家もそうだった。いやわが家に風呂が登場するまでは近所にもらい風呂で、更湯に入るのは気がひけ、そちらの家族が入り終えた頃を見計らってうかがい、手早く引揚げた。
世の中にはクリスマスというものがあり、サンタクロースを信じていたわけではなかったが、子供は何かプレゼントがもらえる日とは知っていても自分に結びつけたことはなかった。ある年の12月25日、目がさめると枕元にクリスマスプレゼントが置いてあり、包みを開けるとピカピカの文房具だ。すぐに「父ちゃんありがとう」と駆け寄ると「サンタが持ってきたんだ」とにっこり笑い、母も笑った。その新品文房具はしばらく使わず、毎晩枕元に置いて寝た。そうするとあの朝の感激がもう一度味わえた。
そうして育った、そうして大人になった。昭和が去ってすでに28年、私もよい歳になり、貧しくても一家が結束して生きてきたあの時代が懐かしくてたまらない。