「美術家たちの沿線物語」と題した本展は、2020年「田園都市線・世田谷線篇」から始まり、2022年「大井町線・目黒線・東横線篇」、「京王線・井の頭線篇」(本年度、同時開催)とつづき、完結篇として「小田急線篇」が2月17日(土)から開催されている。沿線ゆかりの美術家や文化人たちが浮かび上がり、「世田谷の美術」を新たな視点で紹介しているが、なぜ世田谷区はアーティストの街になったのか、本展を3回に分け紐解いてみたい。
■ 世田谷という響き
〝世田谷的〟という響きには、独特の文化的土壌があって知的で豊かな人々の住む街というイメージがある。東京23区の南西に位置し、隣接する三鷹市、調布市、狛江市から国分寺崖線が延び樹林や湧水など豊かな自然環境を残していて、やはり「住みたい街」の筆頭格なのである。かつては武蔵野の趣そのままの長閑な農村地帯だった世田谷は、明治の終わりから昭和にかけて鉄道路線が相次いで開通し、それに伴って郊外住宅地に変貌していった。そこには画家、彫刻家などの美術界はじめ文学、映画、演劇、音楽などに携わるさまざまな芸術・文化人が移り住んできたのである。創作活動に適した環境もさることながら、類は類を呼ぶ、の例え通りに相集う人々の交流も生んだ。
かつて23区の中で最も面積(現在は第2位)があった(大田区が埋め立てによって第1位)世田谷区を走る私鉄は8路線。区内を東西に横切るのは、京王京王線、小田急小田原線、東急田園都市線の3路線があり、さらに南北をつなぐ京王井の頭線と東急世田谷線、加えて東急大井町線、目黒線、東横線も走る。「世田谷美術館」では、これを路線別に俯瞰すれば沿線ゆかりの美術家や文化人たちが浮かび上がり、「世田谷の美術」を新たな視点で紐解くことができると試みたのが、本展である。
■ 全ての始まりは小田急
1927年(昭和2)に小田原急行電鉄(現・小田急電鉄)が開業した小田原線は、世田谷区の中央部を東西に大きく横切る路線。創業者の利光鶴松(1863-1945)は、当初の計画を変更し、新宿から郊外へと向かう路線計画で小田原まで80kmを超える距離を、着工から1年5か月足らずで一気に全線開通させている。関東で初の長距離高速電気鉄道として登場した小田原線は、映画『東京行進曲』(1929年)の主題歌〈シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか〉と歌われるなど、一躍その名が世に知られた。これを作詞した西條八十は、自身ものちに小田急沿線の成城の住人となっている。また、現在の小田急ロマンスカーの原型である〈週末温泉特急〉は、1936年(昭和11) から運行開始され、新宿から小田原をノンストップで結んで、東京周辺の観光地への行楽客輸送を担った。小田原線の開通に先立って世田谷区内では街づくりが始まっていて、学園都市と呼ばれる〈成城〉がいち早く昭和初期から高級住宅地としてその名を高めている。その他の地域も当初は農村地帯や雑木の茂る空閑地が多かったが、戦後の復興にともなって宅地化が急速に進み、人口が急増した。また沿線には、演劇の街としても知られ、区内有数のにぎわいをみせる下北沢駅界隈や、世田谷城址や松陰神社とも程近い、歴史の薫りを感じさせる豪徳寺駅界隈など、さまざまな街の表情を見せることになった。