1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
2022年に創立90年を迎えた「東宝」。その起点となるのは、‶白亜の殿堂〟と称された第1&第2ステージの完成時、すなわちP.C.L.(Photo Chemical Laboratory=写真化学研究所)創立の年、1932年(昭和7年)である(註1)。
現在なら、東宝スタジオ・メインゲート前に鎮座するゴジラ像か、『七人の侍』と『ゴジラ』の巨大壁画がそう言われるのかもしれないが、「撮影所名物」と言えば、古くからの東宝関係者なら迷わず、この第1&第2ステージを挙げるだろう。しかしながら、このP.C.L.由来の旧ステージは、今やスーパーマーケットや電化製品の量販店が入る建物に姿を変え、往時の姿はまったくとどめていない。他には、旧本館ビル(57年竣工)脇の正門を入ったところにあった噴水なども、かつて当所で働いていた映画人にとってはシンボル的存在であったろう。
しかし、筆者にとっての東宝撮影所名物は、特撮用「大プール」と「農場オープン」以外になく、今回はこの両施設について振り返ってみたい。
さて、東宝と言えば、『ゴジラ』に代表される怪獣映画のイメージが強いが、戦中には円谷英二が陸軍の教材映画製作を担ったほか、いわゆる‶戦意高揚映画〟=戦争映画を多数製作。ミニチュアの飛行機を使用した『海軍爆撃隊』(40年)などを経て、海軍省企画による『ハワイ・マレー沖海戦』(42年)でその技術は頂点に達する。今見ても、特殊撮影を用いた真珠湾攻撃シーンは圧巻の出来栄えで、戦後、GHQが実写フィルムと間違えたという話もまことしやかに語られている。いずれにせよ、この特撮技術が戦後の水爆大怪獣映画『ゴジラ』(54年)へと繋がっていったことは間違いない。
400分の1のスケールで作られた真珠湾の大オープンセットは、今では日大商学部と東京メディアシティとなっている東宝第二撮影所(当時は、映画科学研究所の看板を掲げる)の敷地内に作られたもの。軍部主導の作品は、秘密保持のため、すべてこちら第二撮影所のほうで撮影されており、戦後にはGHQから戦犯扱いされることを怖れた森岩雄撮影所長の命により、フィルムは他の戦争映画と共に当撮影所の地中に埋められたという。