事実、教材映画や戦意高揚映画に加担したとの理由により公職追放の憂き目にあった円谷英二は、ようやく52年に東宝復帰。そこから『太平洋の鷲』(53年)や『さらばラバウル』(54年)などの戦記映画、『ゴジラ』(54年)や『空の大怪獣 ラドン』(56年)などの怪獣もの、『地球防衛軍』(57年)、『美女と液体人間』(58年)などのSFものを手がけていくが、そのほとんどが本編監督の本多猪四郎との仕事であった。円谷は祖師谷の住人、本多は成城の住人で、どちらも東北出身(本多は山形で、円谷は福島。ついでに言えば、着ぐるみ役者の中島春雄も山形出身)、本編と特撮部分の見事な融合は、二人の東北人の相性の良さから生まれたものであろう。
『ゴジラ』の製作をきっかけに、撮影所内に水上・水中撮影用のプールが新設。これがのちに「小プール」と呼ばれるようになる施設だが、よく言われる「大プール」は1960年公開の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(松林宗恵監督)のために新設されたものである。『ハワイ・マレー沖海戦』の特撮シーンが、色付きで蘇ったような感覚を持つ総天然色戦争映画で、この大プールの効果もあってとにかくスケールが大きく、一部のショットが米国製戦争映画『ミッドウェイ』(76年)に流用されたときには、何だか誇らしい気持ちがしたものだ。
これ以降の怪獣映画や戦争映画は、ほとんどがこの大プールを利用して撮影。例えば、『モスラ』(61年)でモスラの幼虫がインファント島から日本に渡ってくるシーンであるとか、『キングコング対ゴジラ』(62年)でキングコングとゴジラが熱海城から転落するシーン、SF映画で言えば『マタンゴ』(63年)や『海底軍艦』(同)でヨットや轟天号が海を進むシーンなどが、当プールにて撮影されている。