29歳で「ガン」にはなってしまい、左足の一部は失ってしまったが、そこでの出会いの数々は、感謝ばかりである。ナース主人公の企画はコメディ映画にはならず、『誘惑者』(1989)を一緒にやった長崎俊一監督が『ナースコール』(1993年公開)として誕生させてくれた。元看護士の脚本家、信本敬子さんがシナリオを書いてくれ、薬師丸ひろ子さんと松下由樹さんが主演した。信本敬子さんは、僕がフジテレビヤングシナリオ大賞の審査員をやった時の、グランプリを受賞した女性である。『ナースコール』のプロデューサーはやらずに、企画者としてだけクレジットしてもらった。自分なりに、お世話になった看護士さんたちに感謝の意も伝えたかったのだと思う。
結局、3年間、抗がん剤を投与しながら、三本の病院(入院)映画が誕生した。片方では『彼女が水着にきがえたら』(1989)、『波の数だけ抱きしめて』(1991)のプロデューサーもやった。振り返ると何だかおかしな話だが、がん患者をやっていた時が最も映画を量産したような結果にもなった。
その後「病院へ行こう3」の脚本も出来、製本もしたが、「次に入院したら直ぐに!」と思いつつ、幸いに抗がん剤治療も終わり、新作企画はウエイティングリストに入ってしまった。
東京女子医大病院の最初の入院から、35年が経った。時々「まだ生きている!」と頷きながら再確認することがある。
がん患者になったことで、その後の映画の企画の多くは、マイノリティー側の目線で創るようになった気がする。
『河童』(1994/石井竜也監督)や『スワロウテイル』(1996/岩井俊二監督)も、マイノリティー側の視点に興味を持ち、製作に入って行ったと思う。
大学病院の整形外科病棟の人間模様を看護士を主人公に据え描いた93年公開の『ナースコール』。筆者は当初、コメディ映画の予定で、看護士主役の映画を考えていたが、筆者が入院した際にさんざん迷惑をかけた看護士さんたちの話を、コメディ映画に結びつけることはできなかったという。この作品では、看護士たちが自身の仕事に時に悩み、時に疑問を感じながらも生き生きといきるさまが真摯に描かれている。脚本を手がけた信本敬子は自らも看護士をしての勤務経験があり、それだけにセリフにも説得力が感じられ、メガホンをとった長崎俊一監督は、看護士たちの日常を丁寧に描いている。薬師丸ひろ子が6年目の看護士を、松下由樹が3年目の看護士を演じるほか、江守徹、根岸季衣、江波杏子、中島ひろ子、らが出演。また、膝の骨に腫瘍が見つかるプロサッカー選手を目指す大学生の役で、オーディションで選ばれた渡部篤郎が出演している。この役は、車椅子バスケの道に進みパラリンピックで大活躍することになる、筆者のがんセンターの病棟仲間だった及川晋平さんをモデルに、バスケットをサッカーに変えてキャラクター作りされている。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。