この英断というか、怖いもの知らず? というか、「アイデア行動」は自分には大いに刺激になった。
すぐに行動に出たのが『チ・ン・ピ・ラ』(1984)だ。『南極物語』の翌年で、制作費は桁が違う7500万円。川島透監督とは気が合い、好きな音楽も近いところがあり、自分がアーティストとの交渉などを行うことになった。『竜二』(1983)でデビューした川島監督もフジテレビとどう付き合うかは手探り状態だったと思う。クランクインは決まったが、主題歌は未定のままだった。
「サザンオールスターズで行きましょう!」と、監督との話になり、所属のアミューズ会長(後にぼくもそこで3年間お世話になりますが)に直接会ってアタック。即断の「NO!」で討ち死に……。学生時代、サザンのファンだった自分をアピールしてもダメか……と思ったり、川島監督も『竜二』1本しか実績がなく『チ・ン・ピ・ラ』もどれほどの映画になるかは、正直、ぼくにもよくわからなかった。『竜二』が大好きで『チ・ン・ピ・ラ』をやることになったが、冷静に考えれば、サザンのバリューとは大きな隔たりがあった。
撮影間近になり、次の候補で決めたい! との思いは強く、RCサクセッションの忌野清志郎さんに溜池の東芝EMI(当時)で会うことになった。「スローバラード」や「トランジスタ・ラジオ」とか大好きだった。担当の石坂敬一さん(後にユニバーサルミュージック社長等)には前向きに考えてもらっていて、清志郎さんが「うん」と言えばOKとのこと。事前に企画書やシナリオは渡してあった。
1階のラウンジのような場所で会ったのだが、スッピン? だったので、本物の清志郎さんなのか一瞬ではわからなかった。当時33歳。ちなみにぼくは25歳。
「いかがでしょうか?」「映画は面白そう……だと思います」「ありがとうございます」「では主題歌を創ってもらえますでしょうか?」「もし、ぼくが創った曲が映画と合わなかったりしたらどうしたらいいでしょうか?」「映画は総合芸術とも言われていて多くの関わる方の集大成でもありますので……」「でもぼくのせいで映画が台無しになったりしたら……」
また、討ち死にしてしまった。それでも清志郎さんのことは会う前より好きになった。
もうすぐ撮影がスタートする。何とかそれまでに……。監督とも話し、大沢誉志幸さんに頼んでみよう! とのことに。
丸山茂雄さん(エピック・ソニー創始者/後のソニー・ミュージックエンタテインメント社長)と一緒に、大沢さんと会った。シナリオも読み込んでもらっていて中味の話にも及んで「イケるかな」と思った時だった。「このシーンがどうしても引っ掛かります」と。「そこがなければ……」云々の話になり、「ちょっとそれは厳しいかも……」と答えざるを得ない状況。すでに撮影は始まってしまっていた。
またまた……。丸山さんも気遣ってくれ、「大沢誉志幸のバックバンドもやっていてPINKというのがいて、この前、デヴューしたばかりなんだけど会ってみる?」
川島監督も存在を知っており、独特の声の感じも良く、即決になった。撮影中にレコーディングを行ったが、監督も来てくれ、良い主題歌が出来たと思う。
大沢誉志幸さんは、会って数か月後に出した「そして僕は途方に暮れる」(1984年9月)が大ヒットして、我らの主題歌PINKの「PRIVATE STORY」(1984/10)より遥かにメジャーになった。でも、主題歌は映画にマッチしていて、これで良かったと思う。丸山さんはじめ、素晴らしい方々との出会いもあった。PINKの担当ディレクターだった福岡智彦さんは偶然にも、大阪の南河内郡の小学生時代の近所の先輩だったりした。主題歌を制作時に太田裕美さんとの婚約発表をされ、現在もご夫婦である。
サザンオールスターズのアミューズ会長は『チ・ン・ピ・ラ』を観てくれて「面白かった!」と言ってもらった。『私をスキーに連れてって』(1987)を観たあとには「今度の映画はサザンOKだぜ!」となり、『彼女が水着にきがえたら』(1989)では既成楽曲を何曲も使わせてもらい、映画の主題歌(「さよならベイビー」/サザンとしては初のオリコン1位)も桑田佳祐さんに会って、創ってもらえた。その後、2002年には「アミューズで映画創ろう!」とお誘いを受け(形としては出向)、映画『Jam Films』『荒神』『2LDK』『力道山』、ドラマの「スカイハイ」などの製作をやらせてもらった。
〝縁〟という出会い、そして時間は巡るという〝巡り合わせの日々〟だった。
