それからも、中島らもさんのことがまだ気になっていたのだろうか。らもさんの『永遠(とわ)も半ばを過ぎて』を読んで、何とか映画にしたいと思った。今度は無事に原作の映画化権も許諾され、テレビドラマも御一緒した中原俊監督とやれることになった。
当時は『スワロウテイル』(1996)、『リング』(1998)はじめ、20代の観客を中心に映画を創ることが多かった。この『永遠も半ばを過ぎて』も同様に考えたのか、タイトルが硬すぎる感じがした。今、この歳で考えるととても良いタイトルなのだが、当時は、ストーリーにある3人の男女の嘘つき詐欺話のニュアンスを出したかった。「嘘」=「Lie」、3人だから『Lie lie Lie(ライ・ライ・ライ)』(1997)か。真ん中を小文字にしたのは女性の鈴木保奈美さんを意識したのか……。自分で決めたタイトルだが、英語にしたことも含めて余計、わかりにくくしてしまった気がする。主題歌に、まだデビューしたてのBONNIE PINKを起用し、鈴木保奈美、佐藤浩市、豊川悦司の主演で、今、観ても面白い映画である。残念ながらヒットしなかったのはひとえにプロデューサーのせいであろう。
それから何年かして李闘士男監督と知り合い、彼が『お父さんのバックドロップ』の映画化に並々ならぬ意欲があることを知り、2004年に無事、映画化された。
ただ、公開の3か月前に中島らもさんは逝ってしまった。
出会いや、すれ違い……。映画は人の人生を描くことが多いが、映画を創ること自体も人生の一コマであるのだろう。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。












