78年は東映初の1本立て興行映画『柳生一族の陰謀』が公開された年だ。当時、「キネマ旬報」などで評論家などを中心にした〝時代劇復興〟というような動きがあって、当初は時代劇の名作『浪人街』をリメイクしようという話があった。まだまだ京都の撮影所には時代劇に要求される技術を持った人材が豊富にいたが、一方では映画界でもリストラという現実が迫ってもいた。初代社長大川博の逝去により、岡田茂が二代目社長として跡を継いだ71年頃は、東映は大手映画会社で唯一の好調な経営を続けていたが、それでも藤純子の結婚引退表明や、やくざ映画の客足が落ちるなど、経営が苦しい状況に追い込まれていた。京都か東京の撮影所のいずれかを閉鎖するという計画も進行していた。
後に岡田茂の後を受け三代目社長となる高岩淡(本年10月28日、90歳で逝去)が、京都撮影所のオープンセットの維持を画して「撮影所を一般に開放して撮影風景を見てもらおう」というアイデアを出すが、岡田社長は「映画という夢の工場の舞台裏は見せるものではない」と反対する。それでも高岩が食い下がったので、1日だけという条件で実行したところ、岡田社長も納得するほどの大盛況で、75年11月1日に映画村は開村・公開された。殺陣のショー、俳優のトークショー、侍やお姫様など時代劇の登場人物への変身体験ができるなどが人気となり、撮影所の経営を支えることになる。映画村は、岡田社長が長年取り組んだ合理化の大きな布石だった。
ブロックブッキング体制が崩れつつある状況下でも、京都と東京の撮影所にはスタッフとして社員が大勢いた。プログラムピクチャーの時代、それぞれの撮影所で50本の映画を作らなければいけない。そのために大量にスタッフを揃えているわけだ。ところが、1本立てだと20数本で済んでしまう。というわけで一つの考えとして、スタッフをリストラしなければいけないという案が浮上してくる。映画村開村の背景には、その余剰人員を賄うため、という事情があった。撮影所を守る、映画技術者たちを守る、つまり〝映画の灯を絶やすな〟というところから、同時期に〝時代劇復興〟という動きも出てきた。
そんな状況下で『柳生一族の陰謀』は生まれた。『日本沈没』など各映画会社でも大作映画製作の気運も高まっており、同時に製作予算削減という意味でも、1本立ての時代へと移行することになる。『柳生一族の陰謀』は、興行収入30億円以上という大ヒットとなった。78年の正月映画第二弾として公開された初日の1月15日は、北海道は大雪だった。ところが、札幌ではJRの駅や地下鉄の大通駅、すすきの方面からのすべての道が、映画館へ向かう人々であふれるのを間近に見て、大ヒットを実感した。実際オールナイト上映も常に大入りで、通算で8週間くらいのロングラン上映となった。最終日の入場者数は800人くらいだったが、これは当時すごい数字である。それが、その後の『赤穂城断絶』『真田幸村の謀略』へとつながった。