奇想天外というべきか極めてコミック的というべきか。曲の間奏はビートルズの「グッド・デイ・サンシャイン」がパロディ風に演奏され、般若心経を聴いたと思いきや、ダブらせるようにビートルズの「A Hard Day’s Night」の歌詞が盛り込まれ、最後にはベートヴェンのバガテル「エリーゼのために」が奏でられてフェードアウトしてゆくといった具合。これはフォークソングなのか、こんな歌、聴いたことがない。今夜も聴き逃すまいと深夜のラジオに聞き耳を立てじっと待つ、1968年、受験生たちは眠れない夜がつづくのであった。
当然、テレビ出演もなかったせいか正体不明のフォークグループ、ザ・フォーク・クルセイダーズ(以下:フォークル)は何者だ、という話になった。うすうす関西発のアマチュア学生バンドらしい程度の情報しかなかったから、関東ではあいつら天国から舞い降りて深夜の街をうろつき始めた、と冗談ともつかない笑い話も出回った。
作詞の松山猛は京都出身で雑誌のライターで編集者。メンバーの北山修は京都府立医科大学に通っていたし、やはり京都出身だった加藤和彦がグループの中心的存在で作曲。プロ活動を始めたときに参加した「~ヨッパライ」の早回しの声の主は端田宣彦(はしだのりひこ)もやはり京都出身、同志社大の神学部に通っていたとか。全員が筆者と同じ団塊の世代なのだった。アマチュア時代のフォークルの初期のメンバーは5人でスタートしたが離合集散を経て、加藤、北山、平沼義男の3人組は1967年に解散記念でアルバム『ハレンチ』を300枚だけ自主制作。実は、この音源がラジオ関西で盛んに流されることになる。特にアマ時代から歌っていた「イムジン河」は京都でリクエストされ、一作だけのオリジナルとして作られた「帰って来たヨッパライ」は神戸などで頻繁に取り上げられた。こんな状況に、レコード会社は黙ってはいなかった。プロ化に向けて加藤、北山、端田の3人で再び「ザ・フォーク・クルセイダーズ」を結成、キャッチコピーに「これが話題のアングラ・レコード」と銘打って東芝の洋楽レーベル、キャピトルレコードのシングル盤として発売された。時系列で追うと整然とした流れだが、67年末に発売された途端に爆発的な売行きで、オリコンチャート史上初のミリオン・シングルになったのが翌68年2月15日付というから驚くべきスピードの売行きだった。シングル盤の売行きは累計283万枚に達したと記録されている。
アマチュアのフォークバンドの奇想天外な一曲が、深夜のラジオ放送だけしか聴けなかったことに端を発して大ヒットし、番組そのものの人気を不動にして56年を経て今日までつづいている(この間多くのパーソナリティが出演)。シングル盤のジャケットには、「お寝み前にはお聞きにならないようお願いします」とパロディックな注意書きが話題を呼んだり、人気テレビアニメにも挿入歌にもなったり、作曲家の團伊玖磨はいち早くこの曲を評価したという。「帰って来たヨッパライ」の1968年(昭和43)以降を「日本のロック時代」と定義する音楽評論家もいた。昭和時代の一大ムーブメントを巻き起こした代表的な楽曲であることに間違いない。加藤、北山、端田の3人のフォークルは実質活動わずか2年数カ月、「イムジン河」「悲しくてやりきれない」「ゲ・ゲ・ゲの鬼太郎」「何のために」「青年は荒野をめざす」などシングルをリリースしたが、それら楽曲は我ら団塊の世代が今でも口ずさんでいたいラインナップなのである。
文:村澤 次郎 イラスト:山崎杉夫