失恋ソングだけれども高田が歌う「私はピアノ」は心地いいメロディーになって、聴き惚れてしまったのが最初の記憶だ。ラリー・カールトン、ビリー・ジョエルを巧みに歌詞にちりばめた桑田佳祐の世界が全開だが、やはり高田の歌の上手さが光る曲だ。12枚目のシングルでジャケット写真を見ても、20歳の高田は髪型や衣装も大人の女性らしくなっていった。自分で歌ってみて、「私はピアノ」はとても難しい曲だとわかるのだが、そんなことを微塵も感じさせず、高田は一つの世界を作り上げている。
もちろんピアノを弾きながら歌う原由子バージョンも好きだ。原が歌うと、彼女の独特の声質で哀愁が漂う。この曲の主人公は、失恋の悲しみを自分の分身のようなピアノに語り掛け、ひたすらピアノを弾き続ける。それを高田は能面のように表情を出さず歌い上げているが、反対に原はピアノを弾きながら懸命に歌う姿も印象的だった。
高田は、「私はピアノ」で第22回日本レコード大賞・金賞や、第11回日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞し、紅白歌合戦にもカムバックを果たした。その後、谷村新司の作詞・作曲の「ガラスの花」、桑田佳祐作詞・作曲の「そんなヒロシに騙されて」、さだまさし作詞・作曲「カーテン・コール」まで全26曲のシングルをリリースした。
歌手だけでなく、TBSの「8時だョ!全員集合」では体当たりのコントを演じ、日本テレビの「カックラキン大放送」では研ナオコや郷ひろみたちとコメディを演じて活動の幅を広げていた。しかし、同郷の人気力士若嶋津関との婚約を発表、24歳で芸能界を引退してしまう。幕内に昇進した若嶋津関が高田のファンで雑誌で対談をしたことがきっかけだったという。87年7月場所で若嶋津が現役を引退したあとは、松ケ根部屋のおかみさんになり、21年に親方が定年で協会を退職するまで部屋を切り盛りした。
「自分は不器用なタイプだから二つ一緒にすることは無理だ。結婚は女にとって一番幸せなことだと決心した」と悩んだ末に決意したことを、著書『高田みづえの相撲部屋おかみさん』(毎日新聞社)で語っている。著書では部屋の弟子たちとの出来事を楽しそうに綴っているが、「これでもアイドルだったのよ」と笑いながら、親元を離れ辛い稽古の毎日を送る部屋の子たちを励ます姿が目に浮かぶようだ。
関取が部屋から誕生したときは、親方と一緒に泣き、親方が入院したときは甲斐甲斐しく寄り添う姿も話題となった。まさに気立てがよくしっかりものの鹿児島の女性「薩摩おごじょ」そのものだろう。歌手になるという夢を叶えたがそれを捨て、相撲部屋の縁の下の力持ちとして支え、32年間のおかみさんを卒業した。
「私はピアノ」や「硝子坂」といった私たちの心に残る名曲も残し、潔く次の世界に進み一途に歩んだ、高田みづえに改めて拍手を送りたくなった。
文:黒澤百々子 イラスト:山﨑杉夫