当時の三人娘の勢いはまさに〝スパーク〟するほどで、ナベプロの女性シンガーの代表格だったザ・ピーナッツを追うように、今や伝説的な音楽バラエティ―番組「シャボン玉ホリデー」にも出演。テレビの人気歌謡ショーの後押しもあって、本来コニー・フランシスの「Pretty Little Baby」と競作だったが、中尾ミエ盤は1962年6月にはミュージック・ライフの東京での邦楽売上ランキング1位を記録、最終的に100万枚を売り上げる大ヒットとなった。因みに、コニー・フランシスも日本語で歌唱し、森山加代子、ベニ・シスターズ、伊東ゆかり、後にゴールデン・ハーフ、山口百恵、柏原よしえ、九重佑三子、テレサ・テン(Wikipedia記述)等々多くの歌手にカヴァーされているのも驚きである。しかし本家のフランシスを退けて群を抜いた中尾ミエ盤は、この年、第13回NHK紅白歌合戦で初出場を果たすことにもなった。
主だった初出場組には、仲宗根美樹「川はながれる」、松島アキラ「あゝ青春に花よ咲け」、弘田三枝子「ヴァケーション」、飯田久彦「ルイジアナ・ママ」、北原謙二「若い二人」、ダニー飯田とパラダイス・キング「グッドバイ・ジョー」、トリオこいさんず「ジャンジャン横丁」、吉永小百合「寒い朝」、及川三千代「愛と死のかたみ」、スリー・グレイセス「ストライク・アップ・ザ・バンド」、デューク・エイセス「ドライ・ボーンズ」、五月みどり「おひまなら来てね」、植木等「ハイそれまでヨ」…全14組を挙げてみたが、思わぬ大スターが初出場を果たし、ポップス系あり演歌ありの戦後歌謡の往時が浮かんでくる。記憶は抜け落ちているが、中尾ミエは物怖じせず堂々たる歌いっぷりだったに違いない。
想えば、「森永スパーク・ショー」で初めて知った「可愛いいベビー」のドーナツ盤を買い求めに姉と一緒に近所の商店街の東と西にあった2軒のレコード屋に走ったが、売り切れ在庫無しでがっかりした記憶がある。「可愛いいベビー」の売行きはそれほどの勢いだった。
昭和21年生まれの中尾ミエが歌手デビューし自らの最大のヒット曲を、62年の間歌唱し続けているのは、奇跡と言えるのかも知れない。産経新聞のインタビューに、「こんなかわいらしい歌、いつまで歌えるのだろう」と62年前には不安もあった、と告白している。しかし演歌・歌謡曲全盛時代にも右顧左眄せず、ポップス&ロック系楽曲で生き、歌い続けている中尾ミエのバタ臭さは、白髪になってますます色香を放ち美しく個性的だ。あの若き頃のハッタリ、ツッパリを衰えさせず、変わらず負け嫌いの性分あらわにして「喜寿のコンサート」をやり遂げることだろう。「戦後日本とともに人生を歩んだ同世代の人たちが、おしゃれをして出かける場になれば」(産経新聞)と願いながら。「可愛いいベイビー、ハイハイ! プリリルベイビー(Pretty Little Babyをカタカナ表記にするとこう聴こえた)ハイハイ!」、今でも耳にはっきりと残っている。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫