70年代後半、日本経済も高度成長が安定期に入り、円高も進んだ。因みに1978年の円相場は1ドル195円、前年は1ドル240円。日本人の関心が海外へと向いてきたときだった。1月には作曲家の平尾昌晃&畑中葉子のデュエット曲「カナダからの手紙」や、79年にはジュディ・オングの「魅せられて」、久保田早紀の「異邦人」など、海外にあこがれる日本人のイメージを膨らませる楽曲が流行った時期だ。未知の都市「イスタンブール」に多くの人が好奇心と夢を抱いた。筆者もそんな一人で、世界地図を取り出して「イスタンブール」の位置を確認した記憶がある。前年の77年には「飛んでいる女」が流行語になった。ちあき哲也は失恋した女性のセンチメンタル・ジャーニーを描いたのだが〝恨まないのがルール〟と軽くかわす都会的な強い女性像が庄野の持つ雰囲気とも重なった。
リリース3ヶ月後にはオリコンシングルチャートでトップ10に入り、同年7月リリースの「モンテカルロで乾杯」(作詞・ちあき哲也、作曲&編曲・筒美京平)、同年11月「マスカレード」(作詞・竜真知子、作曲・筒美京平、編曲・瀬尾一三)とヒットが続き、年末の「第29回紅白歌合戦」に初出場した。さらに当時は学園祭ブームで、いろいろな学校が学園祭にアーティストを呼んだが、庄野は「学園祭の女王」といわれた年もあった。コンサートは年間で150本くらい。そのうちの半分が学園祭で全国各地をまわった。
そんな歌手としても絶好調の時期に、庄野は休業宣言をして、地球の素顔をみてまわる旅に出たのだ。80年2月にポーラ化粧品の春のキャンペーンテーマ曲「Hey Lady 優しくなれるかい」をリリースした後、25歳のときである。
日本から5ケ所ストップオーバーできる安いチケットでヨーロッパまで行き、一年で多くの地域をまわり、その後の一年はロサンゼルスに住んでレコーディングをするという2年にわたる旅だった。イスタンブールにも立ち寄ったが、歌詞にある〝光る砂漠〟はなく、OLがミニスカートにハイヒールの音を立てて闊歩する都会だった。曲とのギャップに驚いたと、著書『庄野真代、支えあう社会を奏でたい』で語っている。道中はそれまでの庄野の知らない世界のとの遭遇だった。バックパッカーの出で立ちで訪れたタイにはじまり、アフリカ最北端のチュニジアやサハラ砂漠の町などで心を動かされた出会いを何度も経験する。この2年の旅を終え歌手活動を再開しながら、旅の経験を執筆や講演で伝える活動も始めた。さらにミュージカル「火の鳥」「アニー」、テレビドラマ「教師びんびん物語Ⅱ」(1989年)などにも出演、活動の幅を広げた。
しかし、旅をして世界を見聞きしたことを話すだけでは、内容が浅いと考え、もっと確かな情報や歴史的な背景を学ぼうと決意。法政大学が社会人入試を実施することを知ると、願書を取り寄せ45歳の春に女子大生になった。環境や途上国の問題、ボランティア論、国際協力を学び、奨学生としてロンドンの大学にも留学した。何とパワフルなことか。さらに「NPO法人 国境なき楽団」を立ち上げ、施設などへの訪問コンサートや家庭で不要になった楽器を集めて途上国の子供たちに送るといった活動をはじめ、「子ども食堂しもきたキッチン」も主宰。もちろん、同時代に活躍した歌手の麻倉未希、澤田知可子、原田真二らと昭和ポップスを歌う公演も続けている。
「飛んでイスタンブール」は、歌った庄野真代自身の人生をも変えてしまった名曲といえるだろう。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫