昭和のスター歌手が世に出てゆくまでには、有為転変の人生が付きものだが、アイ・ジョージもまたその典型のような出世物語ではある。前座を取って以降、ラテン・ミュージックを中心に歌っていたが、自ら作曲した楽曲の大ヒットを受けて、翌1962年9月30日公開の日活映画にも出演。『硝子のジョニー 野獣のように見えて』(監督 : 蔵原惟繕)がそれだ。宍戸錠、芦川いづみの共演だったが、聡明清楚な美しさが売りの女優・芦川いづみが障害を持つ薄倖の娘を演じて新境地を開いた作品で、アイ・ジョージは人買いの非情の男という役回り。宍戸錠と芦川とアイ・ジョージの三つ巴の愛憎ドラマは、北海道を舞台にした話題の大作といわれている。また同年、東映では、『アイ・ジョージ物語 太陽の子』と題して波乱に満ちた自伝的な半生を映画化している。
専属歌手となった大阪のナイトクラブ「アロー」からドドンパのリズムが生まれたという都市伝説がある。同時期、渡辺マリの「東京ドドンパ娘」の大ヒットを皮切りに歌謡界はドドンパ・ブームに突入した。一気に露出が増えていたアイ・ジョージは、開高健作詞の「人間らしくやりたいナ」をドドンパのリズムで作曲し、トリスウイスキーのCMにも早々と出演。ドドンパのリズムに乗ってダンスステップを踏みながら、アンクルトリスのアニメ―ションと共演している。1962年(昭和37)テイチクレコードでは、ラテンの女王と呼ばれるようになった坂本スミ子の「祇園でドドンパ」をリリースし、B面に「人間らしく~」を配して発売している。レコードがヒットしたかどうか定かではない。ちょっとヒットした楽曲があれば、すぐに映画化され、CMに担ぎ出され、2匹目、3匹目のドジョウを狙うのが芸能界の常だが、おだてられながら振り回される歌手はいつの間にか大スター気分で天狗になるのも当たり前だった。
さらに勢いはとどまることなく、1963年10月、日本人歌手として初めて米国ニューヨークのカーネギーホールでの公演を果たすことにもなった。1965年には、志摩ちなみとデュエットした「赤いグラス」(作詞:門井八郎、作曲:牧野昭一)が大ヒットするが、アイ・ジョージの代表作は、この2曲に終わった。その後の数多くのレコーディングは、洋楽ポピュラーや外国民謡のカバーがほとんどだったのは、曲に恵まれなかったせいもあるだろう。しかし、日本の演歌的な歌謡曲の風土とアイ・ジョージの天性の声量と歌唱法とは合わなかったからだと、ある音楽評論家が括っていた。
確かに、戦前戦後に両親を失い、いわば戦災孤児さながらに十代の半ばから職を転々とすることなどなかったら、音大に学び正統的な発声と表現力を磨き上げることができたかも知れない。だとすれば歌謡曲の世界ではなくクラシック音楽の声楽としても十分通用したに違いない。活動の場をアメリカに移して久しいが、間もなく91歳を迎えようとしている。芸名は、本名の石松の「I(アイ)」と「譲治」から「アイ・ジョージ」と名乗ったという。昭和の歌謡史に残した名曲と一瞬の名声は、今や忘れ去られようとしている。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫