話は60年余り前、東京の北区赤羽辺りを横切る荒川と並行する新河岸川の水上生活者、喜一ならぬ海野君とボクとの一瞬の交流にさかのぼる。昭和30年代半ば、荒川や新河岸川にも運搬船とおぼしき水上生活者の船がおびただしく行き来し停泊もしていた。そしてボクにとって荒川の河川敷は遊び場というか砂地ながら草野球のグランドで、陽が落ちるまでボールを追っていた。海野君は、いつも一人で河川敷をうろうろしながら、野球に興じるボクらに視線を向けていた。彼と話すきっかけとなったのは、逃したボールを投げ返してくれたついでに、メンバーが足りないからと、キャッチボールに誘ってからだった。彼の投げたボールの勢いもコントロールもよかったのだ。新河岸川に停泊する古い木造の運搬船に住んでいることをその時知った。映画のような郭船ではなかったが、キャッチボールに誘われたことが余程嬉しかったのか、一度だけ乗船させてもらったことがあった。船には雑誌や新聞、畳んだ段ボールなどの古紙が山と積まれていた。それがどこに運ばれていくのか、尋ねることもしなかったが、海野君にとっては宝の山だった。薄暗い粗末な船室で、海野君は宝箱のように大事そうにしていた段ボール箱をニコニコしながら開けてみせてくれた。まさに「宝物みせたる」と言い、泥の河に竹竿を刺して獲った沢ガニを見せびらかす喜一のようだった。そのカニに灯油をかけて灯を点け、ポッと浮かんだ喜一の嬉しそうな顔と、海野君の「どうだ!」という自慢気な表情がダブるのである。
果たして箱の中身は、わが愛しき田代みどりの雑誌の写真や記事の切り抜きばかりだったのだ。実は恥ずかしながら小学年のボクにとっては、初恋ともいえる女子だった。それは単なるファンの域を超えて、永遠に及ばないと知りながらも胸を焦がすような片想いだった。ボクや一つ上の海野君と同じように当時の多くの少年が彼女に恋していたことだろう。
信雄と喜一が出会ってから僅か5年もせず、テレビの普及とともに流行歌は、洋楽のカヴァー・ポップス・ブームになっていった。1960年8月、〝和製ブレンダ・リー〟として売り出され「スイート・ナッシンズ」でデビューした田代みどりは小学6年生だった。7歳にして大阪のジャズ喫茶で歌っていた歌の上手い女の子が、ロカビリー歌手を卒業した平尾昌晃の目に留まったという。10歳の頃には上京して歌手の道を歩みはじめる。その後、「ビキニスタイルのお嬢さん」、「ベビー・フェイス」と立て続けにカヴァー曲のヒットに恵まれて、1961年1月発売の「パイナップル プリンセス」(アネット・ファニセロのカヴァー)はそれらを上回る大ヒットだった。テレビ時代の幕開けとともに、くっきりとしたエクボのチャームポイントが目立ちこの上なく可愛いらしかった。ほぼ同い年の海野君やボクら少年にとって彼女はアイドルそのものだったのである。
フジテレビの洋楽ランキング番組「ザ・ヒットパレード」に釘付けされて彼女の出番を待った。視聴者のリクエストでランキングが決まるという番組だった。同じころ、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」、森山加代子「月影のナポリ」、弘田三枝子「子供じゃないの」や「ヴァケーション」、ダニー飯田とパラダイスキングにいた坂本九が歌唱した「悲しき六十才」もカヴァー曲を歌い翌年の1961年には「上を向いて歩こう」を大ヒットさせた。田代みどりが脚光を浴びた1960年代の初頭は、まさに日本のポップス黎明期であったし、海の向こうのヒット曲を日本語で歌唱するティーン・シンガーが続々と現れた時代だったのだ。
海野君の船の古紙のゴミの山がうらやましかった。彼はあのゴミの山から、田代みどりを発見し、人知れず切り抜きの宝物を築き上げたのだった。彼は、「パイナップル プリンセス」の歌詞も諳んじて鼻歌交じりに歌っていた。〝小さなウクレレ〟〝赤いスカーフ〟〝ワイキキ生まれ〟〝緑の島のお姫様〟〝背高ノッポの彼〟〝おててつないでお散歩よ〟…ひとつ一つのキーワードが、遠く漠然とした見たこともないハワイにつながった。日本の庶民にはパイナップルは値段の張る高級果物で、果物屋の奥座敷に鎮座している存在だった。わずか5年前に『泥の河』に描かれた昭和の暗い断面と、パイナップルやワイキキの明るい太陽は訳詞家の漣健児は単なる想像力ではなく、全米チャートの勢いをかりてティーン・シンガーたちの和製ポップスに乗せ、日本を明るい方向に向けさせようとしたのではないだろうか。間もなくビートルズ旋風がやって来る。そして海野君の木造船は、ボクが知らないまま河岸から消えていた。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫