75年には学生服を着てヤマハポピュラーコンテスト(ポプコン)に出場。1位は中島みゆきの「時代」で75年の大会グランプリだった。「安全地帯」は北海道代表の2位、優秀賞だった。中島みゆきも、「安全地帯っていう恐ろしい中学生グループがいたのを覚えていますよ」とずっと後になって語っていたというから、中学生にしてかなりの実力があったのだろう。
玉置は高校に入学したものの、プロの音楽家を目指し1年で中退。旭川市郊外の廃農家を借りて、音楽専用スタジオに改装してバンド仲間と寝食をともにし、連日連夜練習と楽曲制作、録音に励んだ。約4年にわたる「合宿生活」の甲斐あって数々のコンテストで入賞を果たし、北海道で実力ナンバーワンのアマチュアバンドと言われるようになった。その頃メンバーが目指したのは、「旭川で音楽をつくり、旭川で演奏し、旭川で人を呼び込む」ことだったという。やがて旭川での評判を聞きつけ、訪ねてきたのが金子章平だった。金子はポリドールのディレクターで後にフリーとなるが、手がけたアーティストには、井上陽水、カルメン・マキ、加藤登紀子などがいる。81年、金子の紹介で「安全地帯」は井上陽水のバックバンドとして上京することになった。バックバンドだけでなくライブハウスツアーをやるようになると、噂を聞いたレコード会社のディレクターたちが訪れ、玉置は彼らの抱えているアーティストの曲の依頼を受けるようになる。「ワインレッドの心」が売れる前、岩崎宏美や高橋真梨子らのアルバム用の曲はかなりの数書いていたという。
「ワインレッドの心」(83年11月)は、4枚目のシングルである。それまでの「萌黄色のスナップ」「オン・マイ・ウェイ」「ラスベガス・タイフーン」は全く売れず、どうしたら売れる曲になるかを真剣に考えた末できたのが「ワインレッドの心」だった。作詞は井上陽水に依頼し、玉置は背水の陣で作曲に臨んだ。サントリーの「赤玉ワイン」のCMやテレビ出演で一気に火が付きオリコンチャート1位、「安全地帯」の代名詞のような曲になった。続く「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさようなら」「蒼い目のエリス」「プルシアンブルーの肖像」「Friend」「好きさ」「じれったい」……とヒット曲が相次いだ。
作詞家、松井五郎との出会いも大きかったようだ。「恋の予感」は、はじめ松井も作詞に挑戦したが、20回30回と書き直したが通らず井上陽水が作詞したという経緯がある。松井と玉置のコラボレーションは、作詞と作曲だけにとどまらず、映画『プルシアンブルーの肖像』では玉置が主演をつとめ、これをきっかけに映画やドラマでも活躍するようになった。
「安全地帯」としては、活動を休止の時期もあったが、2013年には全国ツアーを開催し、韓国、香港、台湾でのアジアツアーも挙行した。今年も玉置とオーケストラによる「シンフォニックコンサート」は全国各地で予定されているが、軒並みチケットは完売だ。昨年、東京・芝のザ・プリンスパークタワー東京で開催した玉置のディナーショーは何と6万5000円という最高位の金額だった。
以前、韓国の人気俳優のファンミーティングに行ったが、「恋の予感」を日本語で心を込めて歌ってくれた。カバーは日本人アーティストばかりではない。「旭川で成功すること」を夢見た青年たちが、ここまで上り詰めた原点は、旭川での4年にわたる「合宿生活」であると、納得したのである。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫









