
「テレビマンの手でスターを生み出したい」という、企画にも関わり審査員も務めた阿久悠の熱い思いから生まれた公開歌手オーディション番組「スター誕生!」。1971年のスタートから、83年までの期間に多くの文字通り〝スター〟が誕生した。71年に森昌子が初代グランドチャンピオンになり、デビュー第一号としてデビュー曲「せんせい」を大ヒットさせたことが呼び水となり、「自分もプロの歌手になれるかも」と、中高生を中心とする若者たちの応募が殺到し、番組も最高視聴率28.1%を記録している。
森昌子を筆頭に、桜田淳子、山口百恵、片平なぎさ、岩崎宏美、ピンク・レディー、石野真子、柏原よしえ(現・柏原芳恵)、小泉今日子、中森明菜らも「スター誕生!」から生まれたアイドルたちだ。伊藤咲子もその一人である。決戦大会では、プロダクションやレコード会社のスカウトマンたちがプラカードを掲げ指名するのだが、73年の決戦大会での伊藤咲子への指名は17社にのぼった。ちなみに最高指名社数は桜田淳子の25社である。
決戦大会で優勝した伊藤咲子は、74年4月20日に東芝EMIから阿久悠作詞、シュキ・レヴィ作曲の「ひまわり娘」でレコード・デビューを果たした。大叔母にあたるソプラノ歌手の砂原美智子ゆずりだろうか、伸びのある直球の歌唱力は、森昌子、岩崎宏美に並ぶ。「ひまわり娘」はオリコン週間チャート20位まで上昇し、本来ならばその年の日本レコード大賞新人賞にノミネートされるところだが、楽曲が外国人による作曲であったためノミネートされなかった。だが、「ひまわり娘」は多くの人に愛唱される歌になった。
同年の12月に3枚目のシングルとしてリリースされた「木枯しの二人」が、オリコン週間チャート5位という自身最大のヒット曲となった。作詞・阿久悠、作&編曲・三木たかしによる楽曲で、この後、77年まで、伊藤咲子のシングル曲はすべて、阿久&三木コンビが手がけている。そして、4枚目のシングル「青い麦」を経て、75年7月、5枚目のシングルとしてリリースされたのが「乙女のワルツ」だった。
〝つらいだけの初恋 乙女のワルツ〟と、いきなりこの物語の結末を、イントロにのせバックコーラスが歌い出す。作家の亀和田武氏は、「こんな哀しい歌があるだろうか」と評した。亀和田氏の文章が掲載されているのは、「コモ・レ・バ?」と同じスタッフが編集に当たった雑誌「アンダンテ」の連載「僕らのミュージック・ヒストリー」、2017年春号の一編である。「ひまわり娘」のほかには、荒井由実「ひこうき雲」、坂本九「上を向いて歩こう」、麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」、園まり「逢いたくて逢いたくて」、高田恭子「みんな夢の中」、クレイジーケンバンド「タイガー&ドラゴン」などが、亀和田氏の青春のメモリーとともに紹介されている。

亀和田氏の文章を一部抜粋してご紹介する。「辛いだけって、そんな……。どんな悲恋にも、かすかな甘いときめきはある。切なくても、どこか心やすらぐ甘くほろ苦いテイストが漂う。なのにイントロにつづく伊藤咲子の歌には、少女の気持ちをじんわり感傷で濡らす要素がない」。さらに「なんの救いもない、残酷な初恋。涙がこぼれそうになりながらも、私はどこか非現実的な思いにもとらわれる。(中略)いま、この歌を聴く若い世代は(昭和の歌だなぁ)と感じるだろう。しかし昭和50年に、この歌を耳にした私は(戦後の歌じゃない。もっと昔、戦前や大正の匂いがする)と感じた。こんな〝乙女〟は70年代半ば、もうどこにもいなかった」。そして、「幻の昭和と少女を創りあげた職人、阿久悠の企みに舌を巻く」と。