水前寺清子は、1964年10月15日に、作詞:星野哲郎(有田めぐむ名義)、曲・編曲:市川昭介(いづみゆたか名義)による「涙を抱いた渡り鳥」で、日本クラウンからデビューした。和服のしっとりとした女性演歌歌手の多い中、髪はベリーショート、着流しが粋で、切れのある手さばきが特徴的だった。15歳の時に、「コロムビア歌謡コンクール」で2位になり、作詞家の星野哲郎に見いだされデビューした。因みにこの時の優勝者は都はるみである。星野が、小柄な水前寺を「ちいさな民(たみ)ちゃん」と呼んだことから「チータ」という愛称になった。(民ちゃんは水前寺の本名・民子から)
デビュー翌年の65年には第16回紅白歌合戦に初出場。対戦相手は「柔道水滸伝」を歌う村田英雄だった。この年は、井沢八郎「北海の満月」、都はるみ「涙の連絡船」、山田太郎「新聞少年」、日野てる子「夏の日の想い出」、バーブ佐竹「女心の唄」、ジャニーズ「マック・ザ・ナイフ」らが初出場だった。その後紅白歌合戦には1986年まで連続22回の出場を果たし、そのうち1969年(第19回)、71年(第22回)、73年(第24回)、79年(第30回)と4回にわたって紅組の司会、72年(第23回)の紅組の司会は佐良直美だったが、水前寺は紅組の応援団長を務めている。
トップバッターを2回、トリ前を2回、83年第34回では「あさくさ物語」(作詞・なかにし礼、作曲・森田公一)で初の紅組トリを務めた。この年紅白の直前で最愛の父を亡くしている。幼少の頃、のど自慢や歌謡コンテストで優勝をする水前寺を歌手にしたいと思っていたのは父親だったのだ。紅白のトリは決まっていたが病床の父に知らせることができず、水前寺の晴れ姿をみずに天国に旅立った。この年の紅組司会者の黒柳徹子が、「天国のお父ちゃん、聞こえますか?」と水前寺を紹介すると、わが家の父ももらい泣きしていたのを思い出す。
デビュー曲をはじめ、「いっぽんどっこの唄」(66)、「三百六十五歩のマーチ」(68)、「真実一路のマーチ」(69)などヒット曲の数々は星野哲郎の作詞だ。なかでも「三百六十五歩のマーチ」(作詞・星野哲郎、作曲・米山正夫、編曲・小杉仁三)は、ミリオンセラーとなった。69年3月開催の第41回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に採用され、第11回の日本レコード大賞大衆賞を受賞している。
そんな歌手活動の絶頂期のなか、水前寺を女優として見出したのが石井ふく子だったのである。「ありがとう」は他のキャスティングはほぼ決まっていたものの、主役の「四方光(よも ひかる)」だけが決まっていなかった。たまたま音楽番組で司会をする水前寺をみた石井はこのドラマの主人公にしたいと閃いた。「どこにでもいる、美人じゃない」感じがよかったという。事務所やレコード会社にコンタクトを取るも、「スケジュールがとれない」と断り続けられた。そこで、石井は水前寺が音楽番組の司会の休憩中を見計らい、トイレで待ち伏せして、4週にわたって直接本人を口説いた。水前寺が引き受けてくれなかったら、この企画を白紙にするという覚悟が実った。演技が初めての水前寺をベテランの俳優たちが盛り上げた。もちろん超多忙の水前寺のドラマに真剣に向き合う姿勢をそばで見ていたからであろう。
先日観た第3シリーズ、魚屋編では、水前寺、山岡、石坂のほかに久米明、大空眞美、葦原邦子、井上順、佐野浅夫、奈良岡朋子、波乃久里子、沢田雅美、園佳也子、岡本信人、児玉清、新克人、佐良直美、長山藍子、音無美紀子、下條正巳、野村昭子、小鹿ミキ、前田吟、草笛光子……と出演者が豪華だ。近所の年頃の娘さんに「お見合い」のちょっかいを出すなんて現代では想像もつかない内容だったが、近隣の人々の付き合いが緊密で、人情深い、よい時代の「昭和」を思い出させてくれた。
そして、「ありがとうの歌」(作詞・大矢弘子、作曲・叶弦大、編曲・小杉仁三)の水前寺清子の歌声は、青空を突き抜けるように爽やかで力強く、清々しい気持ちにしてくれた。「ありがとうの歌」のサビのように「今日も、明日もありがとう」そんな感謝の気持ちで毎日を送りたいものである。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫










