おばさんが歌っていた、「ヨイトマケの唄」は1965年(昭和40)7月にキングレコードから発売された、ドーナツ盤だった。当時は、美輪明宏の旧芸名・丸山明宏の名でリリースされた。〝ヨイトマケ〟とは、重い大木を槌(つち)にして櫓の上の滑車で吊り上げたり下げたりして地面を固める土木作業で、大勢が一斉に上げる掛け声のことだという。滑車の綱を引っ張る時に「ヨイっと巻け」という掛け声のことだった。当時は東京でもあちらこちらで見かけた光景だった。「転じて、そのような労働、主に地固め地均しなどの仕事を日雇いでする人」と辞書にある。
大ヒットしている途中、「土方」、「ヨイトマケ」という言葉が差別用語だと指摘されしばらく民放では放送禁止という憂き目に遭ったが、坂本九、なぎら健壱、新井英一、大竹しのぶ、桑田佳祐、泉谷しげる、米良美一、槇原敬之など多くの歌手によってカバーされている。その放送禁止用語といういわれなき呪縛から解き放たれたのは、2000年に桑田佳祐自身の番組(フジテレビ)「桑田佳祐の音楽寅さん―MUSIC TIGER」で桑田自身が歌唱したことがきっかけだったといわれている。
さて、丸山明宏は「シスターボーイ」と呼ばれ芸能界の珍奇な存在だったが、すでにシャンソン歌手として舞台に立っていた。炭鉱の町でコンサートがあった。興行の手違いだったというが、東京の「銀巴里」でも着けているようないつものきらびやかな衣装しか用意されていなかった。舞台に立つのをためらった。しかし会場には炭鉱夫たちが自分の歌を聴きに来てくれている。客席は立錐の余地もなく埋まっている。「私にはこの人たちに歌える歌がない」と痛感し、労働者に伝わる、労働者を歌う楽曲を創ろうと決意した、という。
その思いが「ヨイトマケの唄」となっていくが、楽屋がなかった「銀巴里」の客席で、出演した後偶然知り合った建築工学を学ぶ学生から聞いた、家族のために働き続ける母親の話が作詞のヒントになった。建築工学を学んで立派なエンジニアになっていく物語を着想する。
彼は、子どもの頃はヨイトマケの子きたない子、といじめられたり囃されたりして、泣きながら学校を逃げ出す。その途中で母の働く姿を目にして思い直すのだ。勉強するよ、勉強するよと学校に戻る。途中はグレそうになりながらも、ヨイトマケの母を助けるために勉強に精を出し、高校を出て大学も出て、機械のエンジニアになった。時代は高度成長期に入っていた。建設機械が道路を作り土木作業は人出を煩わせることがなくなった時代になって、エンヤコラの掛け声は聞かなくなり、亡きヨイトマケの母を偲び報告している。
そして挫折しそうになったとき、彼を励ましてくれたのは、母ちゃんのあの唄だったよ、今も聴こえるよ、母ちゃんのヨイトマケの唄こそ世界一、と謳い上げている。
時を経て、すっかりサラリーマン然としてスーツに身を包み、紳士になった雄二とばったり会った。名刺には有名な会社の名が刷られていて「課長」という肩書も付いていた。聞けば、親父さんは高校に入った頃、胸の病が再発して亡くなったが、「母さんは元気だよ、もうお婆ちゃんだけど、幸一兄さん夫婦と一緒に暮らしている」と嬉しそう語った。へぇ?っと問いかけ直したが、あの不良ぽかった幸一さんが、義理の母だったおばさんに近寄らなかった幸一さんが、今はおばさんを引き取って一緒に暮らしている! 雄二は、兄、幸一には頭が上がらないんだよ、と言った。おばさんが手拭いを頬かむりして汗だくで、エンヤコラと歌いながら働く姿をどこかで見かけ、バカやってられないな、と思った幸一さんは、土砂を運ぶトラックの運転手となって、日本中寝るのを惜しんで走り回ったとか。日本の道路をつくり、埋め立て地ができ、宅地を整備し、そのうち大きなビルができ、幸一さんは夢中になってトラックを走らせた。日本の高度成長の底辺で汗を流してきた。やがてバラックのような家を引き払って、家を建てて結婚し、母親も、雄二の次兄まで一緒に暮らすようになったのだそうだ。機械のエンジニアではなかったが、昼夜を問わず、トラックに土砂を積んで走り回っていた幸一さんを、逞しく思い描いたのだった。「ヨイトマケの唄」、そのもののような実話である。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫










