
小学校2年生の頃だったろうか、自分の名前の謂れを親に聞いて発表するという道徳の授業があった。それぞれ、心の美しい子に育って欲しいとか、健康で逞しい子に育って欲しいなど親の願いが込められていた。私はというと、「桃の節句」に生まれたから、「桃子」と決まりそうなところを、名前の字画数で姓名判断をする親戚の人から、「百々子」にしたほうが幸せになれると助言されたからだ。私は少し拍子抜けしてしまった。姓名判断のもと私は「百々子」と命名された。
しかし、20代、30代の頃はこの名前が嫌いだった。第一志望の進学や就職先は達成できず、恋も成就しない。いつもイライラしていた。運勢がいい名前なんて嘘だと、安易な命名をした両親に腹を立てていた。けれども、そんな私の投げやりな気持ちを優しく包んでくれたのが、ばんばひろふみの「SACHIKO」(作詞・小泉長一郎 作曲・番場章幸、編曲・大村雅朗)だった。
「SACHIKO」は、フォークグループ「バンバン」を1978年に解散しソロになったばんばひろふみがリリースした4枚目のシングルで、発売は79年9月21日である。この時期は歌謡番組も盛況で、今でも耳の残るものが多い。特に「SACHIKO」と同じ年の代表曲には、西城秀樹の「YOUNG MAN」、八代亜紀の「舟歌」、さだまさしの「関白宣言」、松坂慶子の「愛の水中花」、ゴダイゴの「銀河鉄道999」、海援隊の「贈る言葉」、ロス・インディス&シルビアの「別れても好きな人」、ジュディ・オングの「魅せられて」、小林幸子の「おもいで酒」など数えきれない。そのなかでも「SACHIKO」は、リリース3ケ月後の12月にTBSテレビの「ザ・ベストテン」に8位で初登場すると、翌年1月に最高位2位まで上昇し、9週間連続ランクインするほど健闘した。ばんば自身にとっても自己最大のヒット曲である。

この曲の4年前に「バンバン」は「『いちご白書』をもう一度」でブレイクした。ばんばは、立命館大学の学生時代からロックバンドを結成した。時あたかも学生運動の真っ只中で、授業もなく音楽三昧の毎日。そのうちロックよりフォークのほうが女の子にモテるからと、フォークに転向したとか。同じころ神戸で活動していた谷村新司が東京進出して音楽事務所を立ち上げるという話に感化され、ばんばも1971年高山巌、今井ひろしと「バンバン」を結成し上京した。1972年5月「何もしないで」をリリースし、続けて「こころの花」「永すぎた春」「冬木立」とリリースしたが、ヒット曲もないまま時は流れた。当時「ルージューの伝言」がヒットしていた荒井由実(ユーミン)の才能に惚れ込んだばんばは、伝手を頼って荒井に楽曲の提供を依頼。できあがったのが「『いちご白書』をもう一度」で、20歳のユーミンにとっても他のアーティストに提供した初めての楽曲だった。学生運動の終焉と就職していく若者の気持ちを歌った歌詞は、戦後の復興から高度成長を遂げ、「これからどこに向かうのか」と時代の変化に戸惑う多くの日本人の心とも重なった。レコード発売前、ラジオ番組で初めてオンエアされると、翌週リクエストはがきが段ボール箱いっぱいに寄せられ、その多さにばんばも驚いたという。










