アナログレコードの1分間45回転で、中央の円孔が大きいシングルレコード盤をドーナツ盤と呼んでいた。
昭和の歌謡界では、およそ3か月に1枚の頻度で、人気歌手たちは新曲をリリースしていて、新譜の発売日には、学校帰りなどに必ず近所のレコード店に立ち寄っていた。
お目当ての歌手の名前が記されたインデックスから、一枚ずつレコードをめくっていくのが好きだった。ジャケットを見るのも楽しかった。
1980年代に入り、コンパクトディスク(CD)の開発・普及により、アナログレコードは衰退するが、それでもオリジナル曲への愛着もあり、アナログレコードの愛好者は存在し続けた。
近年、レコード復活の兆しがあり、2021年にはアナログレコード専門店が新規に出店されるなど、レコード人気が再燃している気配がある。
ふと口ずさむ歌は、レコードで聴いていた昔のメロディだ。
ジャケット写真を思い出しながら、「コモレバ・コンピレーション・アルバム」の趣で、懐かしい曲の数々を毎週木曜に1曲ずつご紹介する。
昭和の時代にも星の数ほど歌手がいてそれをはるかに凌ぐ数の歌謡曲はつくられているというのに、なぜか「この人のこの一曲」が突然よみがえることがある。昭和36年、いきなりスターダムにのし上がった松島アキラのデビュー曲「湖愁」である。当時12歳、小学6年生のボクの心をとらえて離さなかった失恋の歌なのである。
どちらかと言えば洋楽系ポップスにはまっていたボクは、コニーフランシス「ボーイ・ハント」や「可愛いベイビー」なんかを口ずさみ、アニマルズの「朝日のあたる家」、カスケーズ「悲しき雨音」などの日本語訳の詞を歌って悦に入っていた。「ビキニスタイルのお嬢さん」はブライアン・ハイランドが歌ったが、日本では岩谷時子の作詞でダニー飯田とパラダイス・キングで大ヒットした。昭和30年代は次から次へと海の向こうからやってくる洋楽が流行っていた時代である。雑誌「平凡」の附録に洋楽ヒット楽譜&歌詞集などというアンチョコを2つ上の姉と奪い合った思い出もある。
昨年(2021)のNHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で同時代を描いた劇中、クリーニング店のラジオから聞こえてきたのが「湖愁」だった。あまりにも突然で、「冗談じゃない、この歌は俺の十八番だ!」と叫びそうになった。忘れもしない同級生、橘美佐子への恋慕の気持ちが募っていたが、まだ12歳、彼女に男は早かった! 見向きもされなかったのだった。まさに悲しい〝恋の抜け殻〟となったボクは、ただ虚しかった。そこに「湖愁」がこころを揺さぶったのだ。60年を経た今でも、橘美佐子の横顔が浮かんでくる。それにしても「湖愁」という言葉、造語に違いないが、よくぞ哀愁と湖と白樺、はぐれ小鳩etc.を綯い交ぜにした情景がそのまま人のこころの奥底に偲びこんでくるようなタイトルではないか。
それまで全く知らなかった作詞家、大正11年生まれの宮川哲夫という名が記憶に刻まれことは言うまでもない。実は大ヒット・メーカーだったのである。ボクの記憶に残る楽曲だけでも、1953年(昭和28)鶴田浩二が歌った「街のサンドイッチマン」(作曲・吉田正)を皮切りに、1955年(昭和30)「ガード下の靴磨き」「赤と黒のブルース」、1956年(昭和31)「好きだった」がヒット、1957年(昭和32)にフランク永井の「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」、1958年(昭和33)には「夜霧に消えたチャコ」が続く。1961年(昭和36)には「東京ドドンパ娘」(歌・渡辺マリ)、「背広姿の渡り鳥」(歌・佐川満男)、そして「湖愁」と、ヒット曲を連発。1963年(昭和38)に三田明の「美しい十代」、1966年(昭和41)橋幸夫の「雨の中の二人」に続く楽曲「霧氷」で、作曲の利根一郎とともに第8回レコード大賞を受賞という輝かしい実績の持ち主なのである。題名を聞いただけでもワクワクするラインナップ!
哀愁と孤独、そこはかとない空虚感を漂わせる作詞の数は850曲。家業が没落し苦学して師範学校を卒業、小学校教諭となるも、30歳を前に、代表作「酒は涙か溜息か」の高橋掬太郎が主宰する歌謡同人誌「歌謡文芸」の同人となって作詞家の道を進んだ。
伊豆大島の網元という富裕な家の長男に生まれながら、12歳で破産のどん底を体験、屈折した青春時代を過ごしたことだろう。鶴田浩二は〝宮川ニヒリズム〟と呼んだという。作詞家・宮川哲夫と、吉田正、渡久地雅信、利根一郎といった作曲家たちが昭和歌謡の魂を生み育てたその楽曲の数々は、我ら大衆の気持ちを汲んでくれたに違いない。
文:村澤 次郎