オフコースの結成は高校の同級生だった小田和正と鈴木康博ら4人でバンドを組んだのが始まりだった。東北大学に進学した小田と、東京工業大学に進学した鈴木は休日になると車で機材を運び、仙台で練習を続けた。一生懸命練習はしていたけれどプロになろうなどという気持ちは微塵もなかったという。就職を決める時期になり最後の記念にと、第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場することを決める。このコンテストは、ヤマハ音楽振興会の主催で、全国各地5000を超えるアマチュアバンドが出場した。《ジ・オフ・コース》は仙台地区予選で2位となり全国大会へ。優勝は「竹田の子守歌」を歌った《赤い鳥》。2位に輝いた《ジ・オフ・コース》は翌年の70年「群衆の中で」でデビューした。しかし、なかなかブレイクすることはなかった。72年からは小田と鈴木のデュオで活動していたが、76年にベースの清水仁、ギターの松尾一彦、ドラムの大間ジローが加わり5人になり、音楽の幅が広がっていった。ヴォーカル以外の4人はコーラスも担当する。曲作りは、タイトルも歌詞もない状態から始まる。メンバーが意見を出し合いアレンジを加えていき、最後に詞が作られる形だった。何度も何度も書き換え、言葉をひねり出して詞がつけられた。こうして79年12月「さよなら」は大ヒットした。
「今週もオフコースは来ていただけません」と、「ザ・ベストテン」で司会の久米宏が頭を下げる姿が忘れられない。テレビで歌う意義を見出せなかったオフコースは一切テレビに登場しなかった。レコード制作とコンサートに力を注ぐという独自のスタイルを貫いた。その後も「生まれ来る子供たちのために」「YES-NO」「時に愛は」「I LOVE YOU」「愛の中へ」「言葉にできない」「YES-YES-YES」とヒットを連発した。忘れられない曲ばかりだ。
人気絶頂の中、82年5人の最後のツアー「over」がスタート。全国28カ所、69回の公演、観客動員数約25万人。フィナーレは、6月15日から30日までの日本武道館10日間の前人未到の公演だった。ツアー後、鈴木の脱退が発表される。
今年7月2日に「伝説のコンサート オフコース 1982年6月30 日本武道館」がNHKのBSプレミアムで放送された。「言葉にできない」の曲のところでは、映画『ひまわり』のひまわり畑が映し出され、「we are over」という文字が浮かんだ。今だから冷静に見ることができるけれど、当時会場にいたら泣き出してしまっただろう。
その後4人の活動が5年ほど続き、89年に解散。最後の東京ドームコンサートは、私も会場で見守った。
先日、港の見える丘公園の中にある神奈川近代文学館を訪れた。外人墓地からはここぞとばかりの蝉の鳴き声に暑さも倍増したが、たどり着いた公園には、心地よい風が吹いてきた。公園内の「香りの庭」を散策し、隣接する大佛次郎記念館にある喫茶店「霧笛」でチーズケーキとコーヒーをいただいた。
オフコースの曲も、港の見える丘公園も、何年経っても愛しい場所であることは変わらない。
文=黒澤百々子